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2007年1月21日 (日曜日)

横浜ダンスコレクションR:その2

昨日観たダンスについてもう少し。

僕のやっているような
いわゆるビジュアル・アートとは異なり、
自作自演のダンス作品において、
制作者(演出家)自身の身体が同時に
マテリアルであるという事は、
完全に、そして永遠に、
制作者は自己の作品に対して
鑑賞者足り得る事がないという
事実は面白い。
そしてその側面は音楽よりもずっと強い。

そう考えれば、
自分で踊りつつ、
演出的視点で振付け可能な人もいる
というのは厳密にはウソであり、
そうした錯覚を抱かせる
人物もいるという位の感じだろうか。

そしてやはり、実際には、
例え絵画に対する画家のように、
或いは演劇における演出家のように、
自分の作品の全体を見渡す事の
出来る位置に立っているとされた場合においても、
客観視出来るというのは一つの作法に
則った言い方でしかない。

画家、或いは演出家は一人の観客として
自身の作品を眺める事は出来るし、
自分の好きなように作品を変える事も出来る。
しかし彼等は永遠にそれらを眺める自分以外の
観客一人一人ではあり得ず、
当然、鑑賞者一人一人が、一つのものに対して
同じ感情を抱くということはあり得ない。
自明であるが、他人同士が、
同じものを同じように見ているかどうかは
永遠の謎なのである。

自身で踊りつつ演出的観点をも持つという
言い方が成立するとき、そこには必ず
その言い方が成立する社会の共有する
言語/記号の介在が不可欠であり、
数学の大前提
「“例えば”1足す1を2としてみる」ところに
おいて築き上げられた社会的な信頼、
共同幻想に頼った表現と言える。


「振り付け」という言葉に対して
「インプロ(即興)」という言葉があるが、
振り付けのない即興が自由度が高い、
振り付けのあるものがそれ故に
自由度が制限されているという事はない。

即興という場においても、踊り手の肉体を
振り付けている(規定している)観念と偶然は
存在するはずだし、同時に、
舞台でなくとも全ての人間の営為は
即興であるとも言う事が出来る。

重要なのはいずれの場合でも、
その自分を振り付けている何ものかに対して、
如何なる投げかけをするかという事であり、
表現である以上、鑑賞者にとってそれが何かを
考える事ではないだろうか。

そうした投げかけ、
つまりその舞台を司る方法が、
「制作者の見せたいビジョン
(こうみてほしい)という消失点への疾走」
という事になった場合、
特に自作自演の、或いは即興のダンスにおいては、
制作者は、一ミクロも鑑賞者の立場にはなれない
(どのように表現されているか確認出来ない)
故に、ずいぶんと盲目的で、
刹那的な方法と言わざるを得ない。
昨日観た全てのダンサーに共通する
そうした不安定な表現の有り様は、
鑑賞者をどこに連れて行こうとしているのだろうか。

(無論、演者でありながら制作者(演出家)である道が
そこにしかないなどと言いたい訳ではない)

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