« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

2007年3月の15件の記事

2007年3月29日 (木曜日)

ザイムでフェスタ2007

横浜・みなとみらい線日本大通り駅から徒歩五分にあるZAIMにて開催されている「ザイムでフェスタ2007」に行って来た。ホームページによれば、ZAIMとは、

■ 昨年9月28日から12月18日まで山下埠頭で開催された現代美術の国際展「横浜トリエンナーレ2005」の準備期間から終了まで、市民サポーターやアーティストの活動と交流の場として活用された「旧関東財務局」及び「旧労働基準局」。
■ 中区日本大通に面するアクセスの良いこの二つの歴史的建造物を、横浜市では次の横浜トリエンナーレ第3回展に向けて、市民サポーターやアートNPOの活動をさらに盛り上げ、ネットワークを広げるための拠点施設として、開放していくことを決めました。(ザイム・プロジェクト)
■ 同時に、文化・芸術による「創造都市」作りに取り組む横浜市では、この周辺を多くの若いアーティストやクリエーターが集う「創造界隈」と位置づけており、レジデンス創作活動の拠点としても提供していきます。
■ 「市民協働」「創造性」「同時代性」「歴史的建造物」これらの相互作用によって、現代美術にとどまらない様々なジャンルで新たな芸術的価値を生み出し、横浜から発信していく。
(ZAIMホームページより抜粋)

という所らしい。私にはいまいち何がやりたい所なのかピンと来ないのだが、この「ザイムでフェスタ2007」は高校の文化祭のような雰囲気で、この建物の部屋を間借りしている人達なのか、その友達なのか、皆なにか楽しそうだった。

| | コメント (0)

マイクロポップ

先日(2007年3月24日)の「マイクロポップの時代:夏への扉」展についてのエントリの最後を、私はこう結んだ。

私はこの展覧会を訪れる以前に、水戸芸術館のホームページで、企画者・松井みどり氏による展覧会コンセプト「マイクロポップ宣言」を読んでいた。私はこの「マイクロポップ」という概念を、ほとんどアウトサイダーのアートのそれ、或いは子供や未成年の作品として、フォービックなものとして、現代の一部のアーティスト達を括ってしまおうという意図をその時、読んでしまっていたが、どうやらちょっと違うらしい。

しかし、それはどうやらだいぶ違うらしいのは、同展カタログや美術手帖(2007年4月号)の特集「夏への扉:マイクロポップの時代」に親切に説明されていた。そもそもマイクロポップというのは「要は」などと言って括ってしまってはいけないものであったのだ。と、いうより、むしろそうしたカッコに対立する立場であったようだ。例えば「わからない絵」を指して「ピカソっぽい」というように、わからない物をわからない箱にぶち込んで淘汰しようという姿勢、「天才」だとか「異端」だとか、「障害者」「子供」「未成年」だとかっていう言葉によって、接触した理解の範疇に収まらないアートをカッコに括り一義的なものとして持ち上げる姿勢、或いは「オタク」や「ジャポニスム」といった戦略的意図を発露として生まれて来た「アート」への抵抗として、掲げられた言葉なのだ。

美術手帖 2007年 04月号 [雑誌] 美術手帖 2007年 04月号 [雑誌]

販売元:美術出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ここでアートは個人の感性を発露としている、と、いう事がまず、確認されているように思う。それが個々人にとって脅迫的な現実からの逃避であろうがなかろうが、個人の日常に芽生えた希望を切り口に、世界の認識の仕方を変革させようとする姿勢を「マイクロポップ」という言葉は指しているのではないだろうか。クオリア(何らかの感覚刺激を受け取った時に生ずる意識体験の内容・どこまでいっても他人と共有する事の出来ないであろう主観的体験)を掛け替えのないものと尊重し、さらに各々の創作の過程で、社会の中で生きる為に自分で知らず知らず身に付けて来た他人の価値観を追い出してゆこうとするアーティストは強い。経済的、社会的、精神的に何かへ依存することから独立して、自由な存在となる事に貪欲なのだ。

私は、高校生当時、世界の中での言い知れぬ自分の居心地の悪さ、発する言葉、感じる感情、全てが他人の物、借り物であるような感覚から脱却して、自由になりたいという衝動から、アーティストになりたいと思い、制作活動をスタートさせた。アートには自由があると思ったのだ。アーティストは唯一の自分の言葉で話し、何ものをもしっかりと感じる事の出来る確かな身体を持っていると思ったのだ。であるが故に、私の創作活動とは、自由人になる為のステップであり、作品は自由人になる為のインストラクションとして機能する事を目指して来たし、これからも目指す。

アートという言葉を、「既に在るもの」として考えるのではなく、或いは「既に在るアート」から照射されたものとしてしか存在し得ないものとして捉えるのではなく、これから生まれて来る何かについての言葉、私達がこれから意味を付与させるもの、未遂の存在として提起するかに見える「マイクロポップ」という言葉を、私は歓迎したいと思う。

...........................................................................................
書きつつ、2006年1月から6月に放映されたアニメ『Fate/stay night』(フェイト/ステイナイト)登場人物アーチャーの台詞を思い出した。

「おまえは戦う者ではなく、生み出す者に過ぎん。余計な事は考えるな。お前に出来る事は一つ。その一つを極めてみろ。忘れるな。イメージするものは常に最強の自分だ。外敵などいらぬ。おまえにとって戦う相手とは、自身のイメージに他ならない。」
 

| | コメント (0)

2007年3月26日 (月曜日)

the blue hearts

LIVE ALL SOLD OUT
なんとなしに検索してYouTubeでブルーハーツを久々聞いてみたらヤっバいカッコヨスギタ!!
▼「未来は僕等の手の中
http://www.youtube.com/watch?v=0vO2PGbari0&mode=related&search=
▼「終わらない歌
http://www.youtube.com/watch?v=v7ddPutLq7w
▼「chain gang
http://www.youtube.com/watch?v=EmQ49XTXAoU
▼「リンダリンダ〜夕暮れ
http://www.youtube.com/watch?v=zELpW8Ayk1U
「首吊り台から
http://www.youtube.com/watch?v=Sq21DfVbiPM
-------------------------------
そして ↑THE HIGH-LOWS↓
http://www.youtube.com/watch?v=C5yhngaT1lw
-------------------------------
さらに懐メロ尾崎豊を検索して聞いていたら、ぼやーっと、作品の芸術性と普遍(不変)性とはきちんと分別して考えなくっちゃいけないな、と、思った。

| | コメント (0)

2007年3月24日 (土曜日)

マイクロポップの時代:夏への扉

2007_0318_079
私はアートを観る時に、その当の作品を観た時に沸き上がる何かしらの感情と同軸に、メタ的な感情とも言うべき、自身の感情に対する猜疑心のようなものを抱く。こういうことは、私自身がアーティストである事が多く起因しているとは思うが、どんなアーティストでもそうかと言うと、私にはわからない。

私の、出会った事物から得た印象・感動を言語化する能力などたかが知れている。しかし、常に言語化しようという意思を持っているし、言語化する事で、自分の立ち位置を模索する為のツールとして、体験を一つ一つ大切に身の一部にしてゆこうと考えている。だから私の言語化という作業が、自/他とのコミュニケーション・ツールとして、どこまで的確であるかという事はともかくとしたとしても、私は言語化する事を身の一部として、これまでやって来たし、これからもやっていくだろう。

私が、言語を誰か(第三者)に伝える為だけに限って使用しているかというと、そうではないが、対象を把握しようとする場合には多く次の事が言える。私にとっての対象の言語化は、その言語が的確であるという状況、つまり相手に間違いなく伝わる状況からの誤差が少ないほど、「よく知っている事」となり、「当たり前だ」と自分が考え、感じている事であればあるほど、言語化は的確なる状況に近くなる。それ故に、私が言語化出来ない、或いは的確という状況からの距離があまりにも遠いと感じる状況は、未知なるものとの出会いを私に知らせているという事と(ほぼ)同義である。これを、私は自分にとっての一つのチャンスと考えるようにしている。

そこでは、それまでの私ならざる者の介入を感じる事が出来る。いや、私が私ならざる者になっていく事を感じる事が出来る。私ならざる者は私にとって閉塞状況であったものに対して如何なる打開策を提示してくれるのか、私ならざる者は私が限定していた世界を如何に認識させ、ぶっこわし、どんな魅力的な世界へ導こうとしているのか。私はその動向にただ、しっかりと、耳を澄ます事に意識を集中させる。それ以外に何も出来ないし、しても仕方がないようにも思う。

そういった状況は、世の中には私の知らない感覚を抱かせるものなど、無数にあるのではないかと、私に思わせる。実際そうなのだろうけれど、そういう事は知識として、自分の日常の外の事として、理解していても、実感出来る事、自分の生きる問題として感じる事の出来る事というのは、そう、たくさん、ない。これまで居る事の出来た世界はもう、存在しない、そういう状況だ。

私の脳は同時に今現在の自分が何故、対象の印象を言語化出来ないのか、つまり感動しているのか、というメタ的な感情を発動させる。それ故、思考の拠り所を失ったような、どこかまったく知らない町に、ポンと目が覚めたら放り捨てられていたような混乱と空白が、私の全身を不安に包む。しかしそれとて、感じている自分に確固としたアイデンティティが喪失されている為、不安が不安として成立していなかったりもするのだ。

先日観た展覧会「マイクロポップの時代:夏への扉」展でのいくつかの作品は、私の日常を白く濁らせ、私はまだ着地点を見出せずにいる。

泉太郎
「キュロス洞」という7分36秒の映像作品で、作者・泉氏は、テレビ画面に次々と映る芸能人やキャスター、料理番組のボールに、マジックで落書きをし続ける。消しては描くその一心不乱の作者の行為は次第に、マジックの消し残り、消しきれなかった部分の汚れの存在を露にしてゆく。それは時間を追うにつれ、画面を覆い尽くす程の、刺々しい汚物のような胸くそ悪い印象を発散するようになる。作者の衝動的なこのドローイングの行為で立ち現れて来た汚れ、いわば「倍音」のように滲み浮かぶそれとは一体何なのだろう。

K.K.
K.K.氏の作品は「拡散型インスタレーション」という、会期が終了に近づくにつれて、インスタレーションを構成する要素が増加し、変化していくという形態を持ったものだった。制作の素材やゴミなどの散乱するその部屋では、無意識の作者の興味から生じる複数のコンセプトが一つのインスタレーションの中で奇声を発しているかのように同居している。おそらく全てを把握する事は出来なかっただろう。

中央奥ほどに設置されるテレビには、モザイクで顔を隠された作者が本人の父親に「あーーーと何秒言えるかやってみて欲しい」と頼み、自身が先に「あーーーーー」と行ない、さらに父親が「あーーーーーー」と声を出す。この時テレビの中で作者K.K.が着ているのは、2003年に一躍彼の名を轟かせた映画「ワラッテイイトモ、」の劇中、公園に置かれたテレビを作者がハンマーで壊す場面で着用された衣服と同じ物である。壁に設置された複数のヘッドホンステレオを一本のテープが渡り、複数のスピーカーから、やはり、父親の「あーーーーーー」と作者の「あーーーーーーー」が流れ、ループしている。それは複数のヘッドホンステレオ(とそれぞれにそれぞれ用のスピーカー)が設置されている為、ある時は作者の、ある時は父親の声が二重に、ある時は二人の声が重なって、さらにそれらにテレビから流れる声が重なり、異様な空間が演出され、どこか崇高ですらある。壁には多量の父親からの手紙。それらはK.K.に向けられている物である事は確かなのだろう。しかし、どこか架空の子供に宛てられたように具体性に欠けている。そして部屋を暗くし、レーザーの光によって、地球におけるその部屋という一点での、その鑑賞時の地球の自転のスピードを目視する事が出来る。人間は静止していると思っていても実はものすごいスピードで移動しているという事を体感する事が出来る。

半田真規
デニーズの看板のような物体(しかしロゴはない)が白々と光り、パーティ会場のように設置された複数の丸テーブルには白いテーブルクロスが掛けられ、模造ケーキや幾何形態、建築資材のカタログ等の資料で作られたミニチュアの住宅・建築、様々なものが乗せられ、佇んでいる。半分枯れた竜舌蘭の巨大な鉢が搬入出用の台車に乗せられ、それはまるで枯れ果てるのを待っているかのようである。

そのように、巨大な展示会場に、実に様々な物が設置されているわけだが、それらはむしろ私に、そうした物体に切り取られた余白の美術館の青白い空間の、まるで酸素さえも失われた、出来の悪いプラスチックのコップように嘘くさい、嫌な味を想い起こさせる事となった。それぞれの設置された物体に意味があるのかないのか、それがそれでなくてはいけない理由というものが一個も見つからないのにも関わらず、かと言ってそれがそれではいけない理由というのも見つからず、ただ、そこには白い空間が空いていた。

私はこの展覧会を訪れる以前に、水戸芸術館のホームページで、企画者・松井みどり氏による展覧会コンセプト「マイクロポップ宣言」を読んでいた。私はこの「マイクロポップ」という概念を、ほとんどアウトサイダーのアートのそれ、或いは子供や未成年の作品として、フォービックなものとして、現代の一部のアーティスト達を括ってしまおうという意図をその時、読んでしまっていたが、どうやらちょっと違うらしい。

夏への扉:マイクロポップの時代
2007年2月3日(土)〜 5月6日(日)
水戸芸術館

http://www.arttowermito.or.jp/natsutobira/natsutobiraj.html

Book マイクロポップの時代:夏への扉

著者:松井 みどり
販売元:パルコ
Amazon.co.jpで詳細を確認する

アート:“芸術”が終わった後の“アート” アート:“芸術”が終わった後の“アート”

著者:松井 みどり
販売元:朝日出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (2)

Disgorge

2007_0324_084
今回水戸で手伝ったアーティストに音楽をたくさんもらった。感謝。メタルはスラッシュ、ブラックを中心に、かなり知らないバンドがあるのに驚いた。メキシコのDisgorge、ポルトガル(?)のBurzumほか多数。それから主に70年代〜80年代の日本の歌謡曲、新旧アニメソングなど、当分楽しめそうだ。人と音楽を共有するのは面白い。興味の範囲が重なっていたとしても、だとしても、自分では拾わない、拾えない何かを必ず持っている。

| | コメント (0)

2007年3月22日 (木曜日)

レディ・メイド

脳科学者・茂木健一郎氏のブログと同者のココログのインタビューで「レディ・メイド作品の募集」をしている。

Fountain
《泉》Marcel Duchamp

「レディ・メイド」とは、英語で「既製品」の意味である。言わずと知れているが、アートにおいてそれは、マルセル・デュシャンが《泉》(便器を作品として提示)などの、通常別の文脈で捉えられ、機能しているものを、アートとして機能させた(させようとした)作品に対して名付けた言葉としてある。このデュシャンの「レディ・メイド」は、アート鑑賞、及び人間の視覚が、一人一人の観念に依拠した存在である事を、学生当時の私に教えた。

デュシャンは「芸術家が使用する絵の具のチューブは製品であり既製品であるのだから、世界中の全ての油絵は〈手を加えたレディメイド〉であり、アサンブラージュの作品だと結論づけなくてはならない。(マルセル・デュシャン全著作/北川研二訳)と語っている。ここから私が発想したのは、と、するならば、画家・鑑賞者双方、個人個人の、「油絵の具」に対して注がれる「視線」もまた既製品と呼ぶ事が可能なのではないかという事だ。

茂木氏が研究し、広めつつある「クオリア」とは、何らかの感覚刺激を受け取った時に生ずる意識体験の内容の事である(参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)つまり、たとえばあなたが見た「い林檎」の「」を他の人がまったく同じように「赤い」という風に見ているとは、多分永遠にわからない。いくら言葉でお互いにこの「赤い林檎」は「※※※※という風に赤い林檎」だと了解し合ってみた所で同じ事である。その使っている言葉自体、同じ言葉を同じ言葉として認識しているとは限らない、同じ言葉の指し示す感覚を同じ感覚として認識しているとは確かめ様がないからだ。

人間は、このどこまでいっても他人と共有する事の出来ないであろう主観的体験、つまりクオリアを、生きて来た時間の量だけ体験している。この世にたった一人の自分だけのたくさんのクオリアによって学習した事や、生み出した衝動がいつも個々の歴史の一歩を作って来たのだ。世界には65億7千万以上の個人がいる。つまり65億7千万通りのクオリアが、この瞬間にも体験されていると考える事が出来る。そして、今、この瞬間という「切っ先のクオリア」を体験するのは、過去の無数のクオリア体験によって培われた個である。

私がデュシャンから発想した事というのは、65億7千万の個人は、「切っ先のクオリア」を体験する直前までの過去の無数のクオリアによって培われ、常に「切っ先のクオリア」によって生まれ変わる「変動型既製品」であると言えるのではないかという事だった。

今現在体験されているクオリアの数
《世界の人口》

65億7千万の個人は、65億7千万の「変動型既製品」であり、当然それぞれの仕方で無数の非・自分と接触し、「切っ先のクオリア」体験をする。「世界中の全ての油絵は〈手を加えたレディメイド〉であり、アサンブラージュの作品」であるとするならば、この私達の暮らす人間社会もまた、「変動型アサンブラージュ」であり、一人の人間と同じく「変動型既製品」としてクオリアを体験していく存在と言えるのではないだろうか。

| | コメント (0)

水戸からの帰還/読書

茨城県・水戸、四日間の滞在から帰還。滞在中、水戸芸術館「マイクロポップの時代:夏への扉」展を観た。感想は後日。

龍宮 龍宮

著者:川上 弘美
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

水戸の行き帰りのそれぞれ3〜4時間の電車の中では、充実して本を読む事が出来た。幾册かの本を少しずつ。もう、ずいぶんと前に読み始めつつ、なかなか読み進まない、川上弘美著「龍宮」の中に入っている時、内容の善し悪しに関わらず本に内包するスピードについて思った。「龍宮」は230ページほどの、分量としては充分半日で読める文庫本だが、二ヶ月ほど読んだり読まなかったりして、やっとこ現在読み終わるという局面を迎えている。しかし面白くないわけではない。いや、むしろ面白い。体験として、この本は私にそういう速度で読む事を促しているような気がするのだ。

| | コメント (0)

2007年3月17日 (土曜日)

アーティストのヘルプ

明日から、とあるアーティストのヘルプで数日間、水戸芸術館に行く事になっている。現在展示中のワーク・イン・プログレスの作品のヘルプである。私自身も作り手であるが、アーティストの手伝いをする事は、いつも何らかの形で生産的な示唆を得る事が出来るので面白い。このところ自身の仕事で物理的にも精神的にも机に向かいっきりだったので、息抜きにもなるだろう。

| | コメント (0)

以前から調子が悪く、ヨドバシカメラに修理に出していたプリンターがエプソンから戻って来たという電話を受け、車で取りに行く。途中眠気に誘われたので、コンビニコーヒーで復活。少し風邪気味である事が起因して、不安定な生活に輪をかけて、身体の所有主が自分でないような気がし、怖くなったので、慎重に帰宅。

Headlands Center(CA, USA/6月から一ヶ月半、公開制作の為レジデンス予定)に送付する為の資料作成及びメール送信。

| | コメント (0)

3/17

東京国立近代美術館「リアルのためのフィクション」展、ギャラリー小柳「小川百合」展、ヒノギャラリー「山本糾/QUICKSILVER」展、資生堂ギャラリー「内海聖史/色彩に入る」展を観る。

「リアルのためのフィクション」(2007.3.10-5.27) 東京国立近代美術館
東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館のコレクションを中心とした、やなぎみわ塩田千春イケムラレイコソフィ・カルの四人の女性アーティストの1990年代の作品を紹介する展覧会。いずれの作家も、この展覧会のタイトルが示す通り、それぞれ作品の実現化の方法として(枠組みとして)フィクションである事、作品が虚構の世界である事を明確化しているように見えるが、やなぎみわのエレベーターの《案内嬢の部屋1F》が群を抜いていたように感じた。

(東京国立近代美術館のホームページ内の“やなぎみわ”紹介文)
『 やなぎみわは、きわめて人工的な空間の中に、物思いにふけるようなエレベーターガールたちを配します。消費空間の中で商品と私たちをつなぐ役割の彼女たちもまた人工的に作られた商品のような相貌を帯びるのです。』

彼女を一躍有名にしたそのシリーズに対し、確かその当時、やなぎみわ当人も似たような事をNHKの「美の朝」とかで話していたような記憶がある。おそらく言葉として表出する以外にも、写真である事、写真合成である事、アートである事、案内嬢に対する思い、様々な動機が(当然の事ではあろうが)作家自身に内包しており、このシリーズに一つの結実を生んだのだろう。

抜粋したような、公にされる「コンセプト」「解説」という名のもとに発せられる言葉は、時にネタバレ的に作用して、作品はチープに、残りカスのように映りがちである。しかしながら、この《案内嬢の部屋1F》には、どんな作者/周りの言葉も撥ね除ける、ある力が存在している事だけは確かであると思われた。

山本糾展「QUICKSILVER」(2007.2.26-3.17) ヒノギャラリー
私が彼の作品を観たのはこれで三回目である。一度目は2002年に東京都現代美術館で行なわれた「傾く小屋」展、二度目は銀座のギャラリーイセヨシ「時間の庭」展である。

山本氏の写真から沸き起こる感動とは一体何なのだろうか。モノクロの写真に今回映るのは、工場からの、白く巨大な、どこか水爆実験の映像を喚起させる排煙達である。それが排煙である事、排煙という物質の持つ歴史性、或いは排煙に対して無意識的に私が抱いていた何かが、私の鑑賞に影響を与えていたのだろうか。展覧会タイトルの「QUICKSILVER」つまり「水銀」は何を意味し、作品鑑賞にどんな効果を与えていたのだろうか。そう、この文章を書きながら、はじめてそんな基本的な部分に意識を及ばせる。

「写真を撮る」という写真家の意思が、紙やら何やらの物質としての様々な媒介物と出会い、そしてその果てで、紙でも作者の思い入れなどでもなく、「写真」の重さ、体温が、ただ、そこでは現象している。そんな気がした。

今更ながら検索するとインタビューが出て来た。
携帯オサルスのおすすめランチ ランチdeチュ」その100(2003)
http://www.gaden.jp/info/2003a/031008/1008.htm

2007_0325_0851
配布されていた、光沢加工を施されたリーフレットも、そのまま重い額縁に入れて飾りたい気分にさせられる完成度。ヤラレタ。

内海聖史展「色彩に入る」(2007.3.9-4.1) 資生堂ギャラリー
新進アーティストの支援を目的に、公募された展覧会プランから三名のアーティストを選出し、資生堂ギャラリーで個展の機会を与える「shiseido art egg」(シセイドウ アートエッグ)の第一回。総応募数650件から選ばれたのは平野薫(インスタレーション)、水越香重子(映像)、内海聖史(絵画)。私が今回観に行った内海聖史展は、この一連の個展最後の展覧会。残念ながら他二名の展覧会は観る事が出来なかった。四月中旬にこの三名の中から「shiseido art egg賞」なる「一番」が決定されるらしいが、比較出来ないのが残念。

内海聖史氏の作品は、サイトスペシフィックであると、会場での配布物には書かれているが、会場との関係は、私にはまったく見出せなかった。巨大な作品と会場の隙間から、大きい印象だった資生堂の会場が、やけに小さく見える。表現のポイント、何をもって表現としているのかが、明確ではないような気がしたが、モダニズム系抽象画を、その象徴であるようなスケールと、装飾的な「美しさ」によって、メタ的に描いているというような事なのだろうか。

とは言え、さすがに長い間、キャンバス(パネル?)と向かい合い、一つの方法論を徹底して来たキャリアを持つだけあって、絵の具の冴えは抜群だ。絵の具が冴えるという事は、造形的に、絵の具のやり取りに心血を注いで来た経験の成せる技に他ならないし、その実直な態度は、目指されている物、消失点の先がたとえ何であったとしても、胸を打つ要素を蓄えて来る。

| | コメント (0)

3/16 森美術館「笑い」

森美術館日本美術が笑う:縄文から20世紀初頭まで」展、「笑い展:現代アートにみる「おかしみ」の事情」「ジョン・ウッド&ポール・ハリソン」展を見る。

それぞれにそれなりに面白いが、何より量が膨大。取り分け映像作品が多い。しかも5分やそこらであれば、そこそこ多くても観る事は可能だろうが、中には30分越え、50分越えの映像作品もある。三時間以上居たけれど、全てを鑑賞する事は叶わなかった。一つの画面で同コンセプトの、それぞれ20秒〜1分ほどのアイディアを延々と、多分40分?くらいだったと思うが、垂れ流す形の物もある。なるべく観るように心がけたが、見ていると、観客の誰もがほとんど全ての作品を通り抜けていっているのがわかる。観ていないのだ。文字/言葉を使った作品に関しても同様の事が言える。誰もが通り過ぎるだけ。そしておそらく作っている作者本人も、全てを鑑賞される事等、毛頭前提にないのだろう。もちろん僕の鑑賞の仕方は、プロパーのそれなのだろうとは思うが、何か引っかかる。

| | コメント (0)

3/8 代官山UNIT:BRUTAL TRUTH

Sounds of the Animal King Sounds of the Animal King

アーティスト:Brutal Truth
販売元:Steam
Amazon.co.jpで詳細を確認する

13 Hedgehogs 13 Hedgehogs

アーティスト:Melt Banana
販売元:Vivid Sound
発売日:2005/05/17
Amazon.co.jpで詳細を確認する

3月8日(木):グラインドコアバンドBRUTAL TRUTHが去年再結成し、日本にもライブにやって来たので、代官山UNITに行って来た。彼等の前に3つのバンドがそれぞれ5曲くらいづつ演奏する。Melt-Bananaなるハードコアバンドの女性ボーカルが、高い、ホースをねじったようなキュッキュ、とした声をうまく楽器にしていて面白い。曲も速い。こんなにスピード感のある日本のバンドもそれほどないのではないか。BRUTAL TRUTHの時間になると急激に客の数、テンションがマックスに。後は祭り。正確にはわからないが、おそらく二時間程のショーの間、観客のそれぞれは舞台一点に向かって周りを押しのけ、突進する。その圧力を粉砕するように演奏はただただ観客の脳を揺らし殴り続ける。
Brutal Truth「Black Door Mine
http://www.youtube.com/watch?v=mFWrd_FqfSM
Brutal Truth「Collateral Damage」
http://www.youtube.com/watch?v=M8tjchas2I4

Melt-Banana「DEATHCHURCH NY」
http://www.youtube.com/watch?v=V834dITANyg
Melt-Banana「Free The Bee」
http://www.youtube.com/watch?v=VPonrprc0fQ
Melt-Banana「unknown」
http://www.youtube.com/watch?v=_jTMh8V2sNM&mode=related&search=

 

| | コメント (0)

2007年3月15日 (木曜日)

毎日アスピリン

また夜明け(というか朝まで、いま七時三十三分)作業してしまった。。全く生活を変えられる気がしないのは、やりたい事がたくさんたくさんあって、それにはとんでもなくムダだと一般に思われそうな時間が、とんでもなく膨大に必要だっていう事を、ちゃんと知っているからであって、つ、ま、り、僕は、生活を変えなきゃ変えなきゃ、と、口では言いながら、ほんとは変える必要はないっと思っていて、ほんとは変えたくないと願っている。でも、起きているあいだ中ずっと電磁波を浴び続け、透過光に溺れ続けて頭痛が何日も止まないのは、全く僕の願望ではないのだけど。。

| | コメント (0)

2007年3月14日 (水曜日)

ピノ

生活が夜型、朝就寝型になりがち、というか、作業をしているとどうしても体力のギリギリまで興奮して寝付けないのだが、ちょっと必要があって、少しずつ昼間起きている生活のリズムを持ちたいと、昨日は一日部屋の片付け模様替えに終始して、ビールを飲みながら、アニメ「エルゴプラクシー」のDVDを見て、早寝をした。しかし睡眠開始後2時間の間に、「エルゴプラクシー」の愛玩型オートレイヴ(ロボット)ピノ(常にピンクのウサギ、いや猫の着ぐるみを着、少女の外見を持つ)から携帯にメールが来て、返信すると、たちの悪い迷惑メールがむやみやたらと来るようになり、何故か朝のワイドショーに生出演している僕は、何故か自分のハイテク携帯電話の自慢をしながら引っ切りなしに来る迷惑メールを必死にアナウンサーにバレないように隠しているという夢に、何とも嫌な気持ちにさせられ、寝ていられなくなった。こんなに寝覚めのいい事もなかなかない経験だ。

| | コメント (0)

2007年3月11日 (日曜日)

分身

ここ数日左目を囲う骨の外輪郭の内側が、打撲のように?痛く重い。まばらきをしたり、顔の筋肉を動かす時に不快な気分にさせられる。ここ何年もそう言えば、ものもらいにはなっていないけど、これってものもらいの兆候?腫れてはいないが、治る気配もなく、生活に靄をかけるそれは自分の怠惰な性格の分身のようにただ鬱陶しい。

| | コメント (0)

« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »