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2007年3月24日 (土曜日)

マイクロポップの時代:夏への扉

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私はアートを観る時に、その当の作品を観た時に沸き上がる何かしらの感情と同軸に、メタ的な感情とも言うべき、自身の感情に対する猜疑心のようなものを抱く。こういうことは、私自身がアーティストである事が多く起因しているとは思うが、どんなアーティストでもそうかと言うと、私にはわからない。

私の、出会った事物から得た印象・感動を言語化する能力などたかが知れている。しかし、常に言語化しようという意思を持っているし、言語化する事で、自分の立ち位置を模索する為のツールとして、体験を一つ一つ大切に身の一部にしてゆこうと考えている。だから私の言語化という作業が、自/他とのコミュニケーション・ツールとして、どこまで的確であるかという事はともかくとしたとしても、私は言語化する事を身の一部として、これまでやって来たし、これからもやっていくだろう。

私が、言語を誰か(第三者)に伝える為だけに限って使用しているかというと、そうではないが、対象を把握しようとする場合には多く次の事が言える。私にとっての対象の言語化は、その言語が的確であるという状況、つまり相手に間違いなく伝わる状況からの誤差が少ないほど、「よく知っている事」となり、「当たり前だ」と自分が考え、感じている事であればあるほど、言語化は的確なる状況に近くなる。それ故に、私が言語化出来ない、或いは的確という状況からの距離があまりにも遠いと感じる状況は、未知なるものとの出会いを私に知らせているという事と(ほぼ)同義である。これを、私は自分にとっての一つのチャンスと考えるようにしている。

そこでは、それまでの私ならざる者の介入を感じる事が出来る。いや、私が私ならざる者になっていく事を感じる事が出来る。私ならざる者は私にとって閉塞状況であったものに対して如何なる打開策を提示してくれるのか、私ならざる者は私が限定していた世界を如何に認識させ、ぶっこわし、どんな魅力的な世界へ導こうとしているのか。私はその動向にただ、しっかりと、耳を澄ます事に意識を集中させる。それ以外に何も出来ないし、しても仕方がないようにも思う。

そういった状況は、世の中には私の知らない感覚を抱かせるものなど、無数にあるのではないかと、私に思わせる。実際そうなのだろうけれど、そういう事は知識として、自分の日常の外の事として、理解していても、実感出来る事、自分の生きる問題として感じる事の出来る事というのは、そう、たくさん、ない。これまで居る事の出来た世界はもう、存在しない、そういう状況だ。

私の脳は同時に今現在の自分が何故、対象の印象を言語化出来ないのか、つまり感動しているのか、というメタ的な感情を発動させる。それ故、思考の拠り所を失ったような、どこかまったく知らない町に、ポンと目が覚めたら放り捨てられていたような混乱と空白が、私の全身を不安に包む。しかしそれとて、感じている自分に確固としたアイデンティティが喪失されている為、不安が不安として成立していなかったりもするのだ。

先日観た展覧会「マイクロポップの時代:夏への扉」展でのいくつかの作品は、私の日常を白く濁らせ、私はまだ着地点を見出せずにいる。

泉太郎
「キュロス洞」という7分36秒の映像作品で、作者・泉氏は、テレビ画面に次々と映る芸能人やキャスター、料理番組のボールに、マジックで落書きをし続ける。消しては描くその一心不乱の作者の行為は次第に、マジックの消し残り、消しきれなかった部分の汚れの存在を露にしてゆく。それは時間を追うにつれ、画面を覆い尽くす程の、刺々しい汚物のような胸くそ悪い印象を発散するようになる。作者の衝動的なこのドローイングの行為で立ち現れて来た汚れ、いわば「倍音」のように滲み浮かぶそれとは一体何なのだろう。

K.K.
K.K.氏の作品は「拡散型インスタレーション」という、会期が終了に近づくにつれて、インスタレーションを構成する要素が増加し、変化していくという形態を持ったものだった。制作の素材やゴミなどの散乱するその部屋では、無意識の作者の興味から生じる複数のコンセプトが一つのインスタレーションの中で奇声を発しているかのように同居している。おそらく全てを把握する事は出来なかっただろう。

中央奥ほどに設置されるテレビには、モザイクで顔を隠された作者が本人の父親に「あーーーと何秒言えるかやってみて欲しい」と頼み、自身が先に「あーーーーー」と行ない、さらに父親が「あーーーーーー」と声を出す。この時テレビの中で作者K.K.が着ているのは、2003年に一躍彼の名を轟かせた映画「ワラッテイイトモ、」の劇中、公園に置かれたテレビを作者がハンマーで壊す場面で着用された衣服と同じ物である。壁に設置された複数のヘッドホンステレオを一本のテープが渡り、複数のスピーカーから、やはり、父親の「あーーーーーー」と作者の「あーーーーーーー」が流れ、ループしている。それは複数のヘッドホンステレオ(とそれぞれにそれぞれ用のスピーカー)が設置されている為、ある時は作者の、ある時は父親の声が二重に、ある時は二人の声が重なって、さらにそれらにテレビから流れる声が重なり、異様な空間が演出され、どこか崇高ですらある。壁には多量の父親からの手紙。それらはK.K.に向けられている物である事は確かなのだろう。しかし、どこか架空の子供に宛てられたように具体性に欠けている。そして部屋を暗くし、レーザーの光によって、地球におけるその部屋という一点での、その鑑賞時の地球の自転のスピードを目視する事が出来る。人間は静止していると思っていても実はものすごいスピードで移動しているという事を体感する事が出来る。

半田真規
デニーズの看板のような物体(しかしロゴはない)が白々と光り、パーティ会場のように設置された複数の丸テーブルには白いテーブルクロスが掛けられ、模造ケーキや幾何形態、建築資材のカタログ等の資料で作られたミニチュアの住宅・建築、様々なものが乗せられ、佇んでいる。半分枯れた竜舌蘭の巨大な鉢が搬入出用の台車に乗せられ、それはまるで枯れ果てるのを待っているかのようである。

そのように、巨大な展示会場に、実に様々な物が設置されているわけだが、それらはむしろ私に、そうした物体に切り取られた余白の美術館の青白い空間の、まるで酸素さえも失われた、出来の悪いプラスチックのコップように嘘くさい、嫌な味を想い起こさせる事となった。それぞれの設置された物体に意味があるのかないのか、それがそれでなくてはいけない理由というものが一個も見つからないのにも関わらず、かと言ってそれがそれではいけない理由というのも見つからず、ただ、そこには白い空間が空いていた。

私はこの展覧会を訪れる以前に、水戸芸術館のホームページで、企画者・松井みどり氏による展覧会コンセプト「マイクロポップ宣言」を読んでいた。私はこの「マイクロポップ」という概念を、ほとんどアウトサイダーのアートのそれ、或いは子供や未成年の作品として、フォービックなものとして、現代の一部のアーティスト達を括ってしまおうという意図をその時、読んでしまっていたが、どうやらちょっと違うらしい。

夏への扉:マイクロポップの時代
2007年2月3日(土)〜 5月6日(日)
水戸芸術館

http://www.arttowermito.or.jp/natsutobira/natsutobiraj.html

Book マイクロポップの時代:夏への扉

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アート:“芸術”が終わった後の“アート” アート:“芸術”が終わった後の“アート”

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コメント

松井さんの「マイクロポップ」は、同じ美大にいる方が提唱した「私美術」をポップに言い替えたものではないでしょうか。
そのあたりの交遊関係でできているのではないかとにらんでいるのですが…いかがでしょうか。

投稿: Rie | 2007年7月 2日 (月曜日) 02:35

『同じ美大にいる方が提唱した「私美術」』なるものを、どこかで出会ったにもかかわらず、脳のどこにも引っ掛けずに通り過ぎたか、或いは不勉強で、まったく通り過ぎてすらいないのか、は、わかりませんが、「私美術」とは何か、さっぱりわかりません。「同じ美大」とは誰と同じ美大という事でしょうか?そのあたりの交遊関係とは・・さっぱりわかりません。

投稿: ミズタニ | 2007年7月 3日 (火曜日) 13:15

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