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2007年3月29日 (木曜日)

マイクロポップ

先日(2007年3月24日)の「マイクロポップの時代:夏への扉」展についてのエントリの最後を、私はこう結んだ。

私はこの展覧会を訪れる以前に、水戸芸術館のホームページで、企画者・松井みどり氏による展覧会コンセプト「マイクロポップ宣言」を読んでいた。私はこの「マイクロポップ」という概念を、ほとんどアウトサイダーのアートのそれ、或いは子供や未成年の作品として、フォービックなものとして、現代の一部のアーティスト達を括ってしまおうという意図をその時、読んでしまっていたが、どうやらちょっと違うらしい。

しかし、それはどうやらだいぶ違うらしいのは、同展カタログや美術手帖(2007年4月号)の特集「夏への扉:マイクロポップの時代」に親切に説明されていた。そもそもマイクロポップというのは「要は」などと言って括ってしまってはいけないものであったのだ。と、いうより、むしろそうしたカッコに対立する立場であったようだ。例えば「わからない絵」を指して「ピカソっぽい」というように、わからない物をわからない箱にぶち込んで淘汰しようという姿勢、「天才」だとか「異端」だとか、「障害者」「子供」「未成年」だとかっていう言葉によって、接触した理解の範疇に収まらないアートをカッコに括り一義的なものとして持ち上げる姿勢、或いは「オタク」や「ジャポニスム」といった戦略的意図を発露として生まれて来た「アート」への抵抗として、掲げられた言葉なのだ。

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ここでアートは個人の感性を発露としている、と、いう事がまず、確認されているように思う。それが個々人にとって脅迫的な現実からの逃避であろうがなかろうが、個人の日常に芽生えた希望を切り口に、世界の認識の仕方を変革させようとする姿勢を「マイクロポップ」という言葉は指しているのではないだろうか。クオリア(何らかの感覚刺激を受け取った時に生ずる意識体験の内容・どこまでいっても他人と共有する事の出来ないであろう主観的体験)を掛け替えのないものと尊重し、さらに各々の創作の過程で、社会の中で生きる為に自分で知らず知らず身に付けて来た他人の価値観を追い出してゆこうとするアーティストは強い。経済的、社会的、精神的に何かへ依存することから独立して、自由な存在となる事に貪欲なのだ。

私は、高校生当時、世界の中での言い知れぬ自分の居心地の悪さ、発する言葉、感じる感情、全てが他人の物、借り物であるような感覚から脱却して、自由になりたいという衝動から、アーティストになりたいと思い、制作活動をスタートさせた。アートには自由があると思ったのだ。アーティストは唯一の自分の言葉で話し、何ものをもしっかりと感じる事の出来る確かな身体を持っていると思ったのだ。であるが故に、私の創作活動とは、自由人になる為のステップであり、作品は自由人になる為のインストラクションとして機能する事を目指して来たし、これからも目指す。

アートという言葉を、「既に在るもの」として考えるのではなく、或いは「既に在るアート」から照射されたものとしてしか存在し得ないものとして捉えるのではなく、これから生まれて来る何かについての言葉、私達がこれから意味を付与させるもの、未遂の存在として提起するかに見える「マイクロポップ」という言葉を、私は歓迎したいと思う。

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書きつつ、2006年1月から6月に放映されたアニメ『Fate/stay night』(フェイト/ステイナイト)登場人物アーチャーの台詞を思い出した。

「おまえは戦う者ではなく、生み出す者に過ぎん。余計な事は考えるな。お前に出来る事は一つ。その一つを極めてみろ。忘れるな。イメージするものは常に最強の自分だ。外敵などいらぬ。おまえにとって戦う相手とは、自身のイメージに他ならない。」
 

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