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2007年4月10日 (火曜日)

ATMOSPHERIC WORKS

◉シャープペンシルによるドローイング・シリーズ【ATMOSPHERIC WORKS】についてのメモ

Saikinwork_1

□見る為のフレーム
 あるギャラリーの空間には巨大な窓があり、その窓のすぐ外はそのギャラリーを一部に持つ建築の一つの見せ所である大きな池が広がっている。さらに池を前景に、この建築の所在する山の中腹の自然を感じる事が出来る仕組みがそこにはある。天候により、時間により、日ごと、そして季節ごとに実に様々な光をこのギャラリーは浴び、訪れる鑑賞者は、その時々に展示される作品たちと共に、それぞれの瞬間にそれぞれの瞬間でしか現れ得ない空間を共有するのだ。
 しかしここで見る事の出来る、とされる自然、ないし景観は当然、そうしたものを網膜と身体で触っている主体、つまり鑑賞者という媒介があってこそ成立しているに他ならない。人間はそれぞれの所有するフレームなしでは物事を「見る」という事は出来ない。物事はいつもどんなものも中立にしか存在せず、そこには如何なる価値も存在していると同時に存在していない。それらはある人にとっては気持ちのいい清々しい景色だったとしても、ある人にはお腹の痛くなるような因子が組み込まれている事だってある。当人の、その瞬間のフレームがどのようなものであるか、一体何に照準を合わせているかという事で「見る」という行為が、当人自身に与える印象は、どんな所にも転がってゆくものだ。

□地中美術館のアート
私は今年(2007年)の一月、建築家・安藤忠雄氏の手による香川県直島の地中美術館を訪れた。その外観から内部の採光に至るまで、徹底的に計算された安藤建築の哲学に、私は圧倒されると同時に、正直ホワイトキューブ(中立的な空間)を基本とする現代の美術館としては少々我が出過ぎているような(鬱陶しい)気持ちで、恒久展示される二人の現代作家(ジェームス・タレル、ウォルター・デ・マリア)と歴史的巨匠(クロード・モネ)の部屋に臨んだ。
 しかしどうだろう一人一人の作家の部屋を出る度に、それぞれ安藤建築の光、安藤建築の空、そう思っていたあらゆる空間、あらゆる隙間が、そしてさらに遠くに垣間見える自然物であるはずの木々さえも、全く異なって見えたのだ。ある時には全てがミニチュアモデルの人工的な作り物のように、ある時は驚くほど新鮮な見知らぬ色彩を放ってそこに存在しており、そして気が付くと、私の頭からは安藤忠雄氏の事はすっかりすっぽり消えてなくなっていたのである。
 当初、各展示室を訪れる以前は紛れもなく安藤忠雄氏の視線、フレーミングによって、半ば押し付けられるようにして、空や木々の臨める景色を私の網膜は捉えていた(それに対して私がいかに感じ、思おうが)それらが、展示室を出るごとに、デ・マリアの形成する宗教的世界に再フレーミングがなされ、タレルの眩い光の作品にリセットされた網膜によって景観は既知のものではなくなってしまったのだ。

□異世界を開示するフレーム
 こうした偉大な作品達は、私達鑑賞者にフレーミングの存在を決定的に意識させ、さらにその強大な力によって、全く知らない世界が私達の現実のすぐ側に横たわっている事を伝える。しかし、、私はその先の答えを見つける事が出来ないか、と、夢想する。
 確かにマリアの厳格な行きの詰まるような空間は、強烈な印象をいまだ私の記憶に残しているし、それについて考えもする。
 しかし、私は、私の作品では、異世界、つまりフレームは「(作品によって)与えられる」という存在である以上に、鑑賞者自ら「作り上げた」と実感出来るものにならないかと考える。
 私のシャープペンシルの細かい筆致の積み重ねによる作品は、鑑賞者それぞれの、それぞれでしか獲得し得ない様々なイメージとの出会いの実感が目指されている。それが伝えるのは、異世界は、隣だとかの鑑賞者と関係のないところではなく、それぞれの内部に存在するという事である。このコンセプトの実現は、すなわち作品が、それを見た人の世界を変える即戦力となる事を意味するはずだ。

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