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2007年4月の23件の記事

2007年4月29日 (日曜日)

君はコーラリアンを知っているか

このブログをはじめて三ヶ月が経つ。それは私の美術作品の制作を中心とした生活の中でのメモ、覚え書きという側面を持つが、かと言ってそれらが、生活の中で感じ、覚えておきたいと思った事すべてであろうはずもなく、また、すべてが覚えておきたいと感じた事であるわけでもない。

そしてそれ(このブログ)は、私の生み出した作品に対しての解説的な役割といった側面を持つが、やはり、作者である私が解説しようと試み、一見それがすべてとばかりに解説された言葉達が、当の作品そのものであるわけがなく、また、絵画を制作する私が私自身作品であるわけはもちろんなく(仮に私自身が作品であったとしても、で、は、あるが)作品について知っている事(解説)は、ある事象に対して複数人があーだこーだと感想を述べ合っている中での一つくらいのもので、恣意的なものであると言わざるを得ない。

ただ、「ブログをつける」という行為を意識する中でしか生じ得ない、文章を書く独特の緊張感(または弛緩したノリ)があって、そこでもって文章を書いていく事で、私にいったい何が出来るのか、あ、る、い、は、何か出来るのか、という事が私は知りたいのである。

自分の作品と、自分の文章、その関係について考える中で、アニメ【交響詩篇エウレカセブン】の最新鋭巡洋艦月光号の乗組員(ゲッコースステイト)、フリーカメラマン・ストナーの台詞を思い出したので、ちょっと長いけど引用する。

現象と心象 私の名前は観察者。現象と心象の中間に位置する存在。あらゆる自然現象は何者かによって観察されねばその事象が記録される事はない。私の名前は観察者。あらゆる現象は私のような中間に位置する者の目によって観察される事でのみその存在を未来に残す事が出来る。 君はコーラリアンを知っているか。 コーラリアンと呼ばれる存在について、我々が語れる言葉は少ない。誰もがそれをまるで幽霊か化け物のように語る。しかし実際は、いずれにも当てはまらない。コーラリアンを前にして我々の持つ語彙は圧倒的に少ない。 君はコーラリアンを知っているか。 もし我々に今の我々以上の語彙が備わったとして、しかし、きっと我々にはそれを表現出来ないし、その感じ取った事を分かち合う事さえも出来ないであろう。我々はコーラリアンの前では圧倒的に無力だ。 我々は言葉を持たないに等しい 言ってしまえばそれは砂漠の蟻が大空の先にあるものを語るに等しい。しかし伝わらないからといって、表層だけを語り、本質から逃げるという行為に満ちあふれたこの世界で、それにのっとって言葉を紡ぐ事に、いったいどれだけの価値があるのだろうか。伝わらないなら、伝わる努力をするべきだ。その努力をしたくないのなら、永遠の沈黙を持ってこの場から立ち去るべきだ。それを彼らは証明していた。 大波を待つライダー達にとって、そこに存在している事が全てを言い現わしていた。全ては体験を通して語られる。既に用意された安易な言語でしか表現出来ない彼らは、その安易さの下に持ち合わせた深い真実によって、それをあえて言葉として表現する。何を語る。真実を。しかしそれはあまりにも浅い言葉でしかない。それを人は陳腐な言葉の羅列として蔑むであろう。しかし真実など誰がわかる。目の前で起こった現象に対して高尚な言葉で語る事、それこそがその現象を矮小化させている。現象は現象でしかない。現象を語るには現象になるしかない。しかし我々は現象そのものになる事は出来ない。現象は我々以外の所にあり、我々以外の所から発生するものであるからだ。 そうなのだ。現象は俺達がいなくても起こる。ただそれを目撃した者達には何かを残す。それがその者達にとって傷となるのか、はたまた糧となるのか。それすら波には関係がない。
(アニメ【交響詩篇エウレカセブン】第十四話『メモリー・バンド』より引用)

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▼PROJECT EUREKA
http://www.eureka-prj.net/
▼交響詩篇エウレカセブン(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E8%A9%A9%E7%AF%87%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%83%AC%E3%82%AB%E3%82%BB%E3%83%96%E3%83%B3

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2007年4月27日 (金曜日)

終わらない歌

Ippo
始めました。

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2007年4月26日 (木曜日)

おやすみなさい

の作品シリーズ〜同サイズで出来るだけ多く、とりあえず30枚を目標に作ろうと考えていて、と、言ってもそうそうスイスイ進まない、進むわけないので気長に、気長に、はい、つぎつぎ〜っと、出来上がった作品を丁寧に丸めて、ロールになったいつものまっさらな紙を広げた、は、い、い、が、なんだか眠い、眠すぎる、なんだこれ、、ぐぅぅ。。

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ん、

Patapata
▲ん。(画像クリックで拡大)
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シリーズ:【ATMOSPHERIC WORKS】
素材:紙(Savage Widetone Seamless Paper Background)・シャープペンシル
紙サイズ:135.5×135.5(cm)
描画部サイズ:109.5×109.5(cm)
制作期間:10日

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2007年4月24日 (火曜日)

小バエ

紙に向かっていつものようにシャープペンシルを走らせていると、一匹の小バエが手元のまわりをうろついては消えて、まとわりついては消えて、集中力を削いでゆく。本当は逆で、網膜に疲労の兆しがうろついているのかとも思ったが、あまりにうるさいので何度か闇雲に両手をばちんばちんとやっていると案の定、ごま粒ほどの屍が張り付いた。今年になってはじめて小バエを見た。一つの重要なアート作品の集中に貢献した君の死はムダではないぞ、たぶん。たぶんね。でもこれからの季節、一匹で果たしてすむだろうか?この制作が一匹の小バエの死に相当する以上の価値がたとえあるとして、いったい何匹分の殺生に値するのか。

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2007年4月23日 (月曜日)

4/20〜23

金曜日からここまでの事。

20日金曜日の朝、昨年2006年11月10日から今年2007年1月9日まで滞在〜制作活動〜展覧会を行った韓国(光州)UIJAE ART STUDIO:Open Studioのカタログが20冊、船便を経て到着。年末12月後半にオープンスタジオと称した滞在作家作品による展覧会が、このレジデンス・プログラムの主催であるウイジャェ美術館とアーティストに当てられた各スタジオで行なわれたその記録である。当初は展覧会の始まるまでに完成すると言われつつ延期され、帰国までにはと言われていたカタログが、ファウンダー(資金提供者である美術館)の意向により、遅れに遅れようやく完成し手元に届いたというわけ。ともあれB5版272ページで、各作家のインタビュー〜作品図版におよそ20ページを費やす大ボリューム本だ。
※ちなみにこの美術館は韓国の最後の文人画の巨匠と呼ばれるウイジャェ氏の作品を所蔵し常設する施設で、常設展示室の他に、企画展示室(このレジデンツ展を開催した場所)などを備えている。
 
Uijaecatalogue_1 アーティスト・イン・レジデンス(国内外からアーティストを一定期間招聘し、滞在中の制作・調査活動の支援を行なう事業)の応募の際に、現地で行なう企画としていつも“売り”にしている木炭のシリーズ(このところこれをナスカ・シリーズと呼称している)の他、私はこの韓国滞在中にビデオ作品など4種類の作品を制作したが、自分のスタジオに設置した木炭の作品以外の作品写真は、カタログだけ見るとなにがなんだかわけのわからない構成、説明なし。しかしこの機会を通して新しい作品展開の一部を公に、それも最終的にカタログという形で残す事が出来た事は、肯定的に受け止めるべきだろう。

なんてカタログにろくに目を通す事なく、20日の金曜日の夜から21日の朝にかけて、アニメ「名探偵コナン」の11本目となる劇場映画の新作「紺碧の棺(ドリー・ロジャー)」のイベント『名探偵コナン・シークレットナイト7』に出かけた。内容は旧作・第一作目「時計仕掛けの摩天楼」と、最高傑作と聞く第六作目「ベイカー街の亡霊」と最新作の計3本の映画の上映と、出演声優によるトークショー。なるほど第六作目「ベイカー街〜」は群を抜いて物語の完成度が高い。名探偵コナンなのに、ほとんど推理らしい推理がなかった、というか中途半端な印象しか与えない他二作に比べて、思い切って推理をあきらめ(!?)アクション・アニメに徹したのが功を奏しているのかも知れない。それにしても、アニメにもいろいろあるが、もろに子供を対象としたアニメにも関わらず、オールナイトショーが7年間企画されているというのはスゴい。

そして土曜日の朝、なんかぼやぼやしていて全く制作のノリの欠如した自分の顔を見て、いけないいけない、作品制作は何よりノリだろっ!と、松浦亜弥主演映画「スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ」とアニメ映画「時をかける少女」(秀作!!)を見つつ制作開始、し、た、は、いいけれど全然まったく集中出来ず、二時間テレビの前でぼーっと、ぼーっと、ぼーっとしてしまった。結局さらに「スケバン刑事」を二巡し、「時をかける少女」をを二巡し出したところで、ようやくやっと台詞が気にならないくらいまでは制作に入り込む。

名探偵コナン・ベイカー街の亡霊 スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ 通常版   時をかける少女 通常版
とにかくそんなこんなで行こうと思っていた表参道NADiffでの「松井みどり×桜井圭介×佐々木敦」のトークショーの事をすっかり忘れ、シャーペンを握りしめしめ続けて現在に至る。

って表参道NADiffって5月で閉店なんだ!いまホームページ見てはじめて知った。最近は海外カタログはもっぱらAmazonだけど、やっぱ中身見に行ける場所っていうのは貴重だっただけに〜新天地開店に期待。
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▼NADiffからのお知らせ
http://www.nadiff.com/general/closed.htm

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2007年4月18日 (水曜日)

Cloudscape

▲Godfrey Reggeo: Koyaanisqatsi-Cloudscape: music by Phillip Glass
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雲はもとからあったのか、光はもともとあったのか。侵入して来るのは?

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2007年4月17日 (火曜日)

さて、と、

Tsugiつぎつぎっ。






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2007年4月16日 (月曜日)

ふぅ

Ananonaka
▲できたできた。(画像クリックで拡大)
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シリーズ:【ATMOSPHERIC WORKS】
素材:紙(Savage Widetone Seamless Paper Background)・シャープペンシル
紙サイズ:135.5×135.5(cm)
描画部サイズ:109.5×109.5(cm)
制作期間:たぶん二週間くらい

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2007年4月14日 (土曜日)

時間の穴

Umi_2

しなくてはならないと思い込んでいる事、それから多分しなくてはならない事、したいと思って予定を立てた、或いは立てようとした事、そういったいろいろの ほとんどは昨日今日終わるといった種類のものではなくて、いつもいつも背骨の中心左寄り、ちょうど心臓の後ろを痛めつける。でも時折そうしたいろいろが (どうでもよくなるわけではないのだけど)どれもこれも手がつかない、というか手をつける必要がないような、いや、遅延を考えているのでもなくて、とにか く何もしない時間の穴があく。そんなときは新しい絵を描き始める。---------------------------------------------------------------------
トヨタVitzで曇天の茅ヶ崎に行くと、たくさんの波がたくさんの地球にとって大切なもの(そう私達が思い込んでいる何か)を食べているような気がした。

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2007年4月12日 (木曜日)

よし、

RICOH デジタルカメラ Caplio (キャプリオ) R6 ブラック RICOH デジタルカメラ Caplio (キャプリオ) R6 ブラック

販売元:リコー
発売日:2007/03/23
Amazon.co.jpで詳細を確認する

およそ8年間、わがままにも耐え、せっせと仕事をこなして来てくれたデジタルカメラが、遂に先週、継続して労働する事が不可能な状況に。お疲れさまでした。そんなわけで、リコーの「Caplio R6」を新宿ヨドバシにて購入。ちっちゃいくせにレンズもおっきくて、724万画素で、そのうえ黒い。

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キンニくバスター

Niku01_1
久々にキン消しに遭遇したので記念にパチリ。

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2007年4月11日 (水曜日)

Sol LeWitt

コンセプチュアル・アーティスト、ソル・ルウィット(Sol LeWitt)が4月8日、亡くなったらしい。私が大学に入って、この名前を知った頃、外国のアーティストというと、バリバリの現役だろうが何だろうが一緒くたに伝説の霞のかかった存在でしかなかった。あれからずいぶんと年月を経て、この名前や業績を幾度もコンセプチュアル・アートやミニマル・アート関連の書籍で見知り、時に実際の作品を鑑賞し、最近のパブリックアート設置の記事等を通り過ぎてもなお、このあまりに有名な歴史的アーティストに対してこの感覚は拭う事は出来ない。い、生きてたのか。。ご冥福をお祈り致します。

▼YOMIURI ONLINE (2007.4.9)
http://www.yomiuri.co.jp/national/obit/news/20070409zz01.htm
▼ソル・ルウィット: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88

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制作の方法

制作の方法を発見したのは、机の上でうんうん唸ってこれだって見つけたってんではなくて、いろんな偶然の賜物として、やって来た、という感じかもな。 と、今更ながら思った。ずっとうんうん唸っていたし、今もそう変わらないけど。

自分でもわからな い自分がまるごと現象してゆくような感覚がそこにあって、それについてこれまでいろいろいろ考えて来たし、これからも考えるんだろうけど、結局の所、いつも自分が何を描いているのかわからないし、まあ、それで もいいかと思っていたりもして、もっともっと制作に没頭したいという欲求が日に日に高まって来ている。

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2007年4月10日 (火曜日)

ATMOSPHERIC WORKS

◉シャープペンシルによるドローイング・シリーズ【ATMOSPHERIC WORKS】についてのメモ

Saikinwork_1

□見る為のフレーム
 あるギャラリーの空間には巨大な窓があり、その窓のすぐ外はそのギャラリーを一部に持つ建築の一つの見せ所である大きな池が広がっている。さらに池を前景に、この建築の所在する山の中腹の自然を感じる事が出来る仕組みがそこにはある。天候により、時間により、日ごと、そして季節ごとに実に様々な光をこのギャラリーは浴び、訪れる鑑賞者は、その時々に展示される作品たちと共に、それぞれの瞬間にそれぞれの瞬間でしか現れ得ない空間を共有するのだ。
 しかしここで見る事の出来る、とされる自然、ないし景観は当然、そうしたものを網膜と身体で触っている主体、つまり鑑賞者という媒介があってこそ成立しているに他ならない。人間はそれぞれの所有するフレームなしでは物事を「見る」という事は出来ない。物事はいつもどんなものも中立にしか存在せず、そこには如何なる価値も存在していると同時に存在していない。それらはある人にとっては気持ちのいい清々しい景色だったとしても、ある人にはお腹の痛くなるような因子が組み込まれている事だってある。当人の、その瞬間のフレームがどのようなものであるか、一体何に照準を合わせているかという事で「見る」という行為が、当人自身に与える印象は、どんな所にも転がってゆくものだ。

□地中美術館のアート
私は今年(2007年)の一月、建築家・安藤忠雄氏の手による香川県直島の地中美術館を訪れた。その外観から内部の採光に至るまで、徹底的に計算された安藤建築の哲学に、私は圧倒されると同時に、正直ホワイトキューブ(中立的な空間)を基本とする現代の美術館としては少々我が出過ぎているような(鬱陶しい)気持ちで、恒久展示される二人の現代作家(ジェームス・タレル、ウォルター・デ・マリア)と歴史的巨匠(クロード・モネ)の部屋に臨んだ。
 しかしどうだろう一人一人の作家の部屋を出る度に、それぞれ安藤建築の光、安藤建築の空、そう思っていたあらゆる空間、あらゆる隙間が、そしてさらに遠くに垣間見える自然物であるはずの木々さえも、全く異なって見えたのだ。ある時には全てがミニチュアモデルの人工的な作り物のように、ある時は驚くほど新鮮な見知らぬ色彩を放ってそこに存在しており、そして気が付くと、私の頭からは安藤忠雄氏の事はすっかりすっぽり消えてなくなっていたのである。
 当初、各展示室を訪れる以前は紛れもなく安藤忠雄氏の視線、フレーミングによって、半ば押し付けられるようにして、空や木々の臨める景色を私の網膜は捉えていた(それに対して私がいかに感じ、思おうが)それらが、展示室を出るごとに、デ・マリアの形成する宗教的世界に再フレーミングがなされ、タレルの眩い光の作品にリセットされた網膜によって景観は既知のものではなくなってしまったのだ。

□異世界を開示するフレーム
 こうした偉大な作品達は、私達鑑賞者にフレーミングの存在を決定的に意識させ、さらにその強大な力によって、全く知らない世界が私達の現実のすぐ側に横たわっている事を伝える。しかし、、私はその先の答えを見つける事が出来ないか、と、夢想する。
 確かにマリアの厳格な行きの詰まるような空間は、強烈な印象をいまだ私の記憶に残しているし、それについて考えもする。
 しかし、私は、私の作品では、異世界、つまりフレームは「(作品によって)与えられる」という存在である以上に、鑑賞者自ら「作り上げた」と実感出来るものにならないかと考える。
 私のシャープペンシルの細かい筆致の積み重ねによる作品は、鑑賞者それぞれの、それぞれでしか獲得し得ない様々なイメージとの出会いの実感が目指されている。それが伝えるのは、異世界は、隣だとかの鑑賞者と関係のないところではなく、それぞれの内部に存在するという事である。このコンセプトの実現は、すなわち作品が、それを見た人の世界を変える即戦力となる事を意味するはずだ。

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QURULI

▼QURULI: Highway
http://www.youtube.com/watch?v=pNQk_bnt_E4
http://www.youtube.com/watch?v=FrutDK5SzEM&mode=related&search=
▼QURULI: BIRTHDAY

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2007年4月 9日 (月曜日)

完全なる抽象

シャープペンシルによるドローイング・シリーズ【ATMOSPHERIC WORKS】についてのメモ 

紙に向かって背を丸め、シャープペンシルを走らせながら、そういえば制作をしている時には、決まって目を開けてい、る、な、と、思った。実際は目を開けているな〜なんて生易しいものではなく、眉間から額にかけてにこれでもかっというほど力を込めて、眼球に身体の全血液が集まって来てんじゃないのってくらいに、行為の対象である洋紙の手元、指先のシャーペンから線が生み出てくる瞬間を凝視しているわけで、何時間制作しようが、行為の瞬間は常に、ほとんど絶対的にと言ってもいいくらい目をクワッと見開いている。だからひとたび休憩休憩っと、紙から目を離せば、ほとんど何にも焦点を合わせる事が出来ないで、距離感もおぼつかない茫洋とした時間をしばらく過ごさなくてはならない。

手帖なんかに、展示のプランの為にとドローイング、というか、落書きをする時には、逆にかなりの割合で目を閉じて、或いはどこかそっぽを向いて線を引いてみたり、手癖のパターンを繰り返してある程度の面積を筆致で埋めてみたり、盲目の時間を過ごす。そうすると、時に自分のその時々に思考していた何らかの物事との関連性をそこなう事なく、自分ならざるモノの介入を導き、とってもいいヒントを指し示すイメージが姿を現したりして楽しい。

前者、目を見開いている場合は、否が応でもそこには統制の意思が介在する。後者の場合に、統制から肉体を解き放してみる事で獲得し得た、自分の内にある他者性みたいなものは、ほとんど介在しなくなるわけだ。

ま、あ、そう書いてみたものの、ほとんど介在しなくなるなんていうは大げさで、っていうかほぼウソで、実際絵画制作の多くの現場ではそんな事なく、目を閉じるのと同じように、作家の意思以外のいろんな要素が絵画制作には入り込んでいる。絵画制作は、全体像の統制によって作られているのがスタンダードだと言ってもいい。

目を見開いていたって、描く範囲を決定する手の長さや身長は人それぞれ限界があるし、そういった肉体的な特徴はそれぞれに特異な表現を、作者の意思とは関係なく繰り広げる。そうした知らず知らずのうちに紛れ込んだ自身の肉体の表現や、扱いきれない画材や絵の具の物理的な現象という明らかな他者を迎え入れ、たくさんの様々な要素を理想とする場所(それが制作の開始時にあろうがなかろうが)まで連れて行く事に目は尽力する。

しかし、私の画面を統制するのは、その制作の方法である。画材とその扱いの選出、それから制作過程の全体を身体の姿勢から何からが、制作の始めにきっちりと決定される。制作途中、目は画面を統制するどころか、全体を見る事もなかなか叶わない状況を強いられる。私は徹底的に眼球による統制の矛先を、画面全体ではなく、唯一手元に置く。手元にだけに置く事で、筆致を焼き付ける意思だけが紙と現象するように仕向けるのだ。眼球は次の一手を打つ事だけに統制の力を注ぐようになる。焦点を一点に集中された眼球の意思は瞬間にのみ働き続ける。

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都民の良識

気が付いたら、石原慎太郎氏が東京都知事選・3選を決めていた。とりあえず「都民の良識」とやらは東京でオリンピックをする事や、下北沢におーっきな道路をつくる事や、東京都現代美術館がお子様向けの催し物会場になったりする事には反対ではないらしい。ふむ。

“慎太郎節”反省と強気 「都民の良識だ」Sankei WEB (2007/04/09 00:04)
http://www.sankei.co.jp/seiji/senkyo/070409/snk000.htm

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2007年4月 6日 (金曜日)

ブライアン・アルフレッド "Global Warning"

BRIAN ALFRED "Global Warning" (2007.3.23-4.28)
SCAI THE BATHHOUSE
http://www.scaithebathhouse.com/ja/exhibition/data/_global_warning_2007323428/

白々しいまでの「私達が現在直面している問題」を示唆するイメージが、スナップ写真のような構図を用いて、アクリル絵の具で描き出されるブライアン・アルフレッド氏のペインティング。連想される9.11などの危機的状況と言わざるを得ない国際情勢や環境問題、と、いう私達の問題は、あくまで私達の問題でしかなく、私の問題ではなかったという事を自覚させる力を持つ。イメージを形作る、切り貼りされたがごときメリハリの利いたエッジに区切られた色面は、いずれの作品も、どこかアメリカ同時多発テロ事件のあの早朝の雲一つない真っ青な空を私に思い出させた。

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2007年4月 4日 (水曜日)

ミサイルマン

▲ミサイルマン:↑THE HIGH-LOWS↓

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第一回 田中功起ショー

第一回 田中功起ショー「いままでのこと、さいきんのこと、これからのこと」(2007.3.16-30)
上野の森美術館ギャラリー
http://www.ueno-mori.org/tenji/annex/20070316/index.html

私はこれまで、田中功起氏の作品を特別追って来たわけではないし、おそらく観たのはほんの一部の展覧会に過ぎないだろう。しかし、まさにいま、旬の人気作家だけあって、そんな私でも田中作品の体験は一度や二度ではない。その私の経験上という前提付きではあるが、今回のVOCA展と同時開催の上野の森美術館・別館ギャラリーでの「これまでを振り返る」主旨の展覧会は、田中作品最高のインスタレーションと言わせる説得力を持っていた。

ホームセンターで購入して来たようなDIY用品、机やパイプ椅子などの、散らかし系インスタレーションの中に複数の映像作品をループさせた複数のテレビが配置されているのは、水戸芸術館での「マイクロポップの時代:夏への扉」展出品作とほぼ同様であり、この作家の常套句でもある。一つ一つのビデオは、日常的な物を主人公として、その存在の在り方や働き、物同士の現象の仕方そのものを、次々に映し出している。まさに1970年代に花を咲かせたモノ派のごとき表現を繰り返すというものである。私の解釈したモノ派とは、見知った現象を取り出して「同語反復するだけ」の表現であり、実際作品を前にしても、何の驚きも発見も見出せたためしがなかった。同様に、これまで田中功起氏の映像作品を観ても、モニターの中で次々に起こるような日常の現象が面白い事は、少なくとも私にとっては知ってる事であった。それ故にこれまでの田中氏のモニターに映るそれら現象は、散らかされたインスタレーションと共に、既知の面白さをわざわざ啓蒙するかのごとき作品と、私には見えていたし、それ以上の示唆があるとは到底思えなかった。しかしながら、今回の上野の森美術館でのインスタレーションは、その考えを一から改めなくてはならない必要を私に迫って来たように思う。

複数のモニターが何故必要だったのか。複数のモニターに映し出される映像の関係性。散らかされたインスタレーションの意味。

▼美術評論家:峯村敏明氏によるテキスト【「モノ派」とは何であったか】
(鎌倉画廊ホームページより)
http://www.kamakura-g.com/KG-html/monoha-page/monoha-what.htm
▼Dialogue:美術館建築研究[5]アートの現場から[3]田中功起+青木淳
http://tenplusone.inax.co.jp/dialogue/dialogue005/dialogue5_1.html

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2007年4月 1日 (日曜日)

遠藤利克展「Trieb-神殿 II」

もう少し前の事になるが、秋山画廊遠藤利克展「Trieb-神殿 II」(2007.3.5-31)を観た。会場に入ると洗濯機のモーター音のようなウンウンとうなる音が響き渡っている。白い壁を一周して鉛のパイプが走っており、一端が会場右奥のドアを突き抜け、その奥に続いていて、その先は覗く事は出来ないが、どうやらその奥にモーターがあり、そこからパイプに水を供給しているという事らしかった。展示空間中央には、やはり鉛の1×1.5×1メートル強ほどの箱状の物体が置かれている。モーターの音は、日常空間における洗濯機ほどではないにしろ、その性質として、不快な感情を抱かせる効果を発していたが、それ以外に表現と言えるような物は、私には見つける事が出来なかった。それぞれのオブジェは造形的に面白いと呼べる物ではなかったし、かと言ってこちらの現実に存在するものでも、その要素の気配すらなく、何も連想させず、鑑賞する手だては完全に喪失されていた。同時展示されている、この展覧会のエスキースと思われる二点のドローイングを観ても何もわからない。この作品を表現として扱う術を私は知らない。

この展覧会について、毎日新聞記者三田晴夫氏は「よみがえった人類史の古層に触れるかのような、荘厳さと畏怖(いふ)の念を募らせてやまない光景」と評しているが、私には何の事やらさっぱりわからない。

毎日新聞(2007年3月27日/東京夕刊)記事
▼「美術:内海聖史展/遠藤利克展 夢幻の場を導く色彩と水」
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/news/20070327dde014040029000c.html

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VOCA展2007

上野の森美術館にて、VOCA展2007「現代美術の展望-新しい平面の作家たち」(2007.3.15-30)を観た。この平面作品を制作する若手アーティストの登竜門とも呼べるVOCA展を、私が訪れたのは、例年のこの時期は日本に居なかったり、忙しかったりで、かなり久しぶり。しかし現在も、既に雑誌などのメディアにちょこちょこ取り上げられ、見知っている作家の作品を少なからず見る事が出来るのは、一つのVOCA展に訪れる利点だ。全体的に、以前あったような重厚な、というか重い雰囲気の作品がなくなっている印象を持った。世代が確実に入れ替わっているという事だろうか。いくつか気になった作品があったが、ここでは二点。

田口和奈氏の「その悲しい知らせ」と題された写真作品は、何か、何処かで見た事のあるような少女のポートレイトが黒いぼんやりとした背景に浮かんでいる。VOCA展カタログ内推薦者のテキストによると、田中氏の作品は、様々なメディアから切り取って来た人物のパーツ(の写真)を組み合わせたモンタージュが、一旦アクリル絵の具で描き起こされ、さらに写真に撮られ、作品とされるという。おそらくこのサイズ、テクスチュアでなくてはならない何か、というのがあるのだろうが、その逸話を知ってしまうや否や、カタログの写真を見ているだけでも、細部にわたって一人の人間(作者)の人体に対しての、強迫観念的なフェティシズム(?)が反映されているようで、とげとげした感情が沸き上がって来る。面白い。

黒嶋亮子
氏の「光」はワイヤーで吊るされた、薄く白いカーテンに描かれた、桜をイメージさせる、華やかなドローイング作品である。設置状況としては、グループ展という事もあってか、けっしてこの作品にとってベストの作品サイズ、場所、照明であったとは思えなかった。というか、もっと良い環境を、僭越ながら用意したい衝動に駆られたが、しかしともあれ、呼吸をするように、或いはきわめて個人的な日記を淡々と日々つけるように、日常化され、反復された描くという行為(ドローイング)が、桜というイメージに連結し、展示され、静止しているはずのカーテンを、そっと揺らしていたのが印象的であった。
...........................................................................................
この「桜」に触発され、今日近所の公園の桜並木をビデオカメラで撮影し、映像作品を制作した。
Sakura

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