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2007年4月 9日 (月曜日)

完全なる抽象

シャープペンシルによるドローイング・シリーズ【ATMOSPHERIC WORKS】についてのメモ 

紙に向かって背を丸め、シャープペンシルを走らせながら、そういえば制作をしている時には、決まって目を開けてい、る、な、と、思った。実際は目を開けているな〜なんて生易しいものではなく、眉間から額にかけてにこれでもかっというほど力を込めて、眼球に身体の全血液が集まって来てんじゃないのってくらいに、行為の対象である洋紙の手元、指先のシャーペンから線が生み出てくる瞬間を凝視しているわけで、何時間制作しようが、行為の瞬間は常に、ほとんど絶対的にと言ってもいいくらい目をクワッと見開いている。だからひとたび休憩休憩っと、紙から目を離せば、ほとんど何にも焦点を合わせる事が出来ないで、距離感もおぼつかない茫洋とした時間をしばらく過ごさなくてはならない。

手帖なんかに、展示のプランの為にとドローイング、というか、落書きをする時には、逆にかなりの割合で目を閉じて、或いはどこかそっぽを向いて線を引いてみたり、手癖のパターンを繰り返してある程度の面積を筆致で埋めてみたり、盲目の時間を過ごす。そうすると、時に自分のその時々に思考していた何らかの物事との関連性をそこなう事なく、自分ならざるモノの介入を導き、とってもいいヒントを指し示すイメージが姿を現したりして楽しい。

前者、目を見開いている場合は、否が応でもそこには統制の意思が介在する。後者の場合に、統制から肉体を解き放してみる事で獲得し得た、自分の内にある他者性みたいなものは、ほとんど介在しなくなるわけだ。

ま、あ、そう書いてみたものの、ほとんど介在しなくなるなんていうは大げさで、っていうかほぼウソで、実際絵画制作の多くの現場ではそんな事なく、目を閉じるのと同じように、作家の意思以外のいろんな要素が絵画制作には入り込んでいる。絵画制作は、全体像の統制によって作られているのがスタンダードだと言ってもいい。

目を見開いていたって、描く範囲を決定する手の長さや身長は人それぞれ限界があるし、そういった肉体的な特徴はそれぞれに特異な表現を、作者の意思とは関係なく繰り広げる。そうした知らず知らずのうちに紛れ込んだ自身の肉体の表現や、扱いきれない画材や絵の具の物理的な現象という明らかな他者を迎え入れ、たくさんの様々な要素を理想とする場所(それが制作の開始時にあろうがなかろうが)まで連れて行く事に目は尽力する。

しかし、私の画面を統制するのは、その制作の方法である。画材とその扱いの選出、それから制作過程の全体を身体の姿勢から何からが、制作の始めにきっちりと決定される。制作途中、目は画面を統制するどころか、全体を見る事もなかなか叶わない状況を強いられる。私は徹底的に眼球による統制の矛先を、画面全体ではなく、唯一手元に置く。手元にだけに置く事で、筆致を焼き付ける意思だけが紙と現象するように仕向けるのだ。眼球は次の一手を打つ事だけに統制の力を注ぐようになる。焦点を一点に集中された眼球の意思は瞬間にのみ働き続ける。

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