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2008年7月 7日 (月曜日)

退屈な木々

東京・神楽坂、ユカササハラ・ギャラリーにて「原良介:ゆらめき地平面」展を観て来た。ここは以前まで小谷元彦や西尾康之など人気アーティストを扱うギャラリー、山本現代のあったスペースで、並ぶ隣の旧児玉画廊の場所にはMORI YU ギャラリーというのが入っていた。両ギャラリーの移転後ここに来たのは初めて。2001年に原良介(b.1975)氏が「東京ワンダーウォール」という東京都の主催するコンペティションで大賞を受賞した前後数年、幾度もこのペインターの作品を観る機会には恵まれていたが、今回は久しぶり。

当時の原氏の作品は、強い日差しに照らされた木々や人間の影の形象など-非実体的な具象的イメージを、支持体となる麻の白いキャンバスにたっぷりとした余白を残しながらさわやかな色とりどりの絵の具の物質性を強調した筆致で描き、鑑賞者の認識の確定を遅らせ続けるような絵画を制作していたと記憶しているが、久しぶりに観た絵画群はもはや影のモチーフや余白は用いず、かなり寓話的な要素を突出させているように映る。話を聞いたところ、以前のやり方では、還元的過ぎた為に限界が見えたので、とにかく画面・キャンバス全体を埋めてしまう事だけに的を絞り、制作を再出発したとの事。

Hara 寓話的なイメージを画面が与える大きな理由は描かれる風景の中で、しばしば登場する人物たちの仕草にあるようだ。人物像はどんな場合でも、物語を生み、比較的多くの支持者を得るように思うが、そういう連想ゲームには基本的に僕は興味がない。ここでは逆に登場人物のいない、縦構図の「landscape」と題された120号ほど(未確認)の森を描いた作品(右画像:yuka sasahara gallery HPより)に、コンセプトの定まった、つまり自我を乗り越えていくポイント/入口までの道のりがよく見定められた表現になっているように思われ、嫌が応にも目が行った。

キャンバスのかなりの部分(デティール)まで、たんなる絵の具でも見知った夢、連想ゲームでもない、仮象であり現実である「描かれたもの」という、第三の質感が現れ始めているように感じた。この絵は、縦長のキャンバスの下方から上方へと順番に、計画性を持たずに、この木の出現の後はどういう木を描こうというふうに、行き当たりばったりに描かれたという事だ。

制作途中、キャンバスの未だ埋められていない余白の形や量の制作者に与える重圧や開放感などが、既に描かれた内実への視線に影響を与えつつ、その余白と内実の際(きわ)で、新しいイメージをその都度産出させていったのではないかと容易に想像出来る。

当然「森」という具体的な物を描いているわけだから、作者の森に対する思念がキャンバス表面上には残留している事には違いない。実際そうした思念は、キャンバス平面上のその筆のさばき方や色の選択、木々の密集の仕方、木や枝、つるの種類等々々にあからさまに現れて来ている事も確認出来る。しかしそういった作者の悲喜こもごもの感情すら、前述した絵の具や物体としてのキャンバスなどのような絵画と言われる現象を構成する一要素として、等価に扱われている。

結果、中目のキャンバスのこの比率/この大きさは、この絵/この内実にとって唯一無二の立脚点を獲得し、この絵画なる物体を構成する絵の具や描かれる木々も同様に、互いとの適切な距離を見出し、そして渾然一体となった「landscape」と呼称するしかなかったものが現前したのではないかと推測した。

多くの鑑賞者にとってそれらの木々は、その他の展示された原作品と比較して、圧倒的に退屈に映るのかも知れない。ひょっとしたら制作者である原氏にとっても。しかし、真に見るべき何かが、この退屈さには潜んでいるように思えてならない。

原良介 ゆらめき地平面:Flickering Horizon(2008.7.5 Sat. - 8.9 Sat.)
ユカササハラ・ギャラリー
http://www.yukasasaharagallery.com

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