カテゴリー「文化・芸術」の59件の記事

2008年10月19日 (日曜日)

テーマがないとは

大日本印刷の運営するアート情報サイト「アートスケープ」の“フォーカス”(2008/10/15)欄に今年の秋に多数開かれている、アジアの国際展(ビエンナーレ/トリエンナーレ)についての市原研太郎氏(批評家)によるレビューが掲載されている。

artscape:フォーカス:テーマと大衆──2008年アジアのビエンナーレを観て(市原研太郎)
http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/focus/0810_01.html

2002年の「ドクメンタ11」のディレクターを務めたオクウィ・エンウェゾー氏がアーティスティック・ディレクターとなり、“テーマなし”と明言された今回の第7回カンジュ・ビエンナーレは、市原氏によれば、たいそう素晴らしいものであったらしい。以下少し長いが引用しておく。

エンウェゾーは、記者会見で、テーマを決めることが鑑賞者の見方を制限すると語っていたのを思い出したのだ。勿論、展覧会のテーマを明確にすることで、テーマに即して表現の意味を掘り下げ、作品をより深く理解することが可能となる。私は、これまでビエンナーレを鑑賞するとき、このテーマ性を理解と評価の重要なポイントとしてきた。展覧会のテーマが、われわれの生きる世界に、どの角度でどう切り込んでいるのか。その新しさや強さや鋭さを、展覧会の成否を判断する材料にしてきたのだ。他方で、それに見合う作品が十分に確保されたかどうかで、展覧会の充実度は測られる。
 そうであればこそ、今回のビエンナーレはさほど高い評価を付与されないはずなのに、反対の判断を私に下させたのは、まったく矛盾しているようだが、まさに「テーマがない」からだった。それがないことで、観客の見方が限定されない。個々の作品を、どう解釈しても構わないのみならず、エンウェゾーが言うように、観客は出会う作品が何であるか、つねに意識を開かれた状態にしておく必要がある。その結果として、テーマを設定しないことによって生じる作品の多様性が、高評価につながる理由になったのである。次にどのような作品が目前に現われるのか、会場を回りながらなんとなく期待している自分自身に、私は気づいた。その多様性は、ひとつの視点に縛れないことによって帰結する多様性である。特定の視点が許す範囲の「寛容」という名の限られた多様性ではない。
 今ビエンナーレでは、そのための3つの工夫(作品選出の仕方が異なる「On the Road」「Position Papers」「Insertions」と名づけられたセクション)が企画の段階で練られているが、いずれにせよ、優れた作品群が会場に置かれたことに変わりはない。それらのほとんどが、社会的、政治的問題を扱ったシリアスな内容だったが、外見や形式としても完成度が高かったのだ。カンジュは、エンウェゾーの力量と趣味のよさを証明するビエンナーレだったといって過言ではないだろう。

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2008年10月13日 (月曜日)

所沢ビエンナーレ・プレ美術展:カタログについてのメモ2

このカタログに掲載された展覧会場写真は表紙から全て、今展出品参加アーティストである写真家の山本糾氏の手による。写真家という表現者の表現であり、同時に記録である。

▼ヒノギャラリー:山本糾のインフォメーション
http://www.hinogallery.com/rireki_yamamoto.html

展覧会の経験をもとにこのカタログを眺めると、美術作品において記録とは何だろうという気分が再び、そして急速に、想起される。起因すると考えられるのは、これらの記録が写真家、表現について思考をし続ける一人の希有なアーティストの撮影によるものであり、映り込む様々な要素の“現れ”に極めて厳格である事(実際一つ一つ素晴らしい写真だと思う)。そして各々の実際の作品は(それが絵画であったとしても)それぞれ種類・次元は違えど各々に三次元空間・・現実の中でギリギリの“現れ”を獲得しようと投企されたものであるという事である。「写真は実物とは違う」周知の、当たり前の事ではあるが。

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所沢ビエンナーレ・プレ美術展:カタログについてのメモ1

前回のエントリで紹介した「所沢ビエンナーレ・プレ美術展 引込線」のカタログは1色製版の本である。手元にある同様にモノクロの2007年MoMAで行なわれたリチャード・セラ個展のカタログ(4色製版)と比較すると黒の色の性格がまるで異なるのがよくわかる。4色製版のそれのように黒い色が単独の色として主張するのと対称的に、モヤの立ち籠めるような、粉を吹いたような表面、つまり質の印象を強く与えるのが1色製版の特徴である。展覧会場を撮影した写真は、この会場(旧工場内)の特性故かどれも暗い。暗い事で1色製版である事を助長している。印刷されたそれぞれは、黒という色そのものよりも、その色の張り付いた、或いはその色の奥にある何かに見る者の想像を誘っているようだ。これらの事柄だけが起因しているのではなかろうが、この本はどこか煤のように黒い、湿度を帯び空を低くする嵐の前の雲のごとくどんよりとした塊としての存在感を持っている。シャレた雰囲気を持つ“アート”の響きとは縁なき始終のこの物体はカタログと言うよりも本である。

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所沢ビエンナーレ・プレ美術展:カタログ

Tokorozawa_tirashi_2 この夏開かれた「所沢ビエンナーレ・プレ美術展 引込線」のカタログが完成し、配送されて来ました。所沢ビエンナーレのホームページ(ニュースページ:以下)から通信販売していますので、ご興味ある方は是非お買い求め下さい。
http://tokorozawa-biennial.com/news.html
表紙・本文+オールモノクロ約200ページ
価格:2,000円(税込・送料込)

15人の執筆者(学芸員・評論家等)によるカタログ掲載論文はこの展覧会についてというものではなく、それぞれの執筆者は言葉を手段とする表現者としてこの本に参加しています。また、16人の展覧会出品アーティストそれぞれのコメント、写真家の山本糾氏撮影による作品(展示風景)写真を掲載。(右写真は引込線展フライヤー画像)

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2008年10月10日 (金曜日)

GALLERY MoMo Ryogokuオープン

2005年の一月に私が個展「Callous」を行なった六本木の画廊、ギャラリー・モモが両国に新しいスペース「GALLERY MoMo Ryogoku」をオープンさせた。大江戸線「両国」駅下車徒歩二分という好立地。現在は、過去にこのギャラリーで展覧会を行ったアーティスト23名の作品によるオープニング・エキシビションが開催されている。開催直前に訪れたが、およそ横幅4メートル、奥行き15メートルほどの細長いスペースはすっきりとしつつなかなかお目にかかれない面白い空間、なにより3メートル以上はあるのか、天井がグッと高い事は多くの制作に自由を与えるように思われた。それだけに残念なのは、この展覧会への私の出品が、ずいぶんと以前、このギャラリーに預けていた2004年制作の小さな習作のみという事だ。ともあれ、この空間だからこそなし得る事ってのがある事は間違いないだろう、これからここからどういう表現が生まれて来るのか。

Ryougoku_2GALLERY MoMoウェブサイトhttp://www.gallery-momo.com

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2008年9月19日 (金曜日)

継続すること

先日まで開催された展覧会「引込線」に関してのブログ掲載(連載!?)のお知らせを頂いた(本人からではないが)ので紹介する。

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五十路のチビジ
工場と美術ー所沢ビエンナーレ・プレ美術展「引込線」
その1(2008/09/19)
http://srep.blog.shinobi.jp/Entry/16/
その2(2008/09/20)
http://srep.blog.shinobi.jp/Entry/17/
その3(2008/09/21)
http://srep.blog.shinobi.jp/Entry/18/

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▶その他この展覧会についてのネット上の記述(ブログエントリ他)はコチラとかコチラ

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2008年9月16日 (火曜日)

4700人とは

「所沢ビエンナーレ・プレ美術展 引込線」、無事終了しました。4700人を越える来場者があったとの事(会期のべ17日間)。観覧して頂いた皆様ありがとうございました。

以下は前エントリに続き、ネット上に上がった「所沢ビエンナーレ 引込線」関連の記述(順不同)

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はろるど・わーるど
引込線 西武鉄道旧所沢車両工場(2008/09/09)
http://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/faa549d041b934d2dbb28da441b69f96

余白の日々/日々の余白
[美術][書物]所沢から所沢へ(2008/09/05)
http://d.hatena.ne.jp/selavy/20080905/1220618028

FMチャッピー DJ日誌
アートな所沢、始動!(2008/09/01)
http://ictv.easymyweb.jp/member/fmchappy/?c_id=6225

Web Forum
引込線(2008/08/23〜)
http://hkuma.com/bbs/wf/wforum.cgi?mode=allread&no=9135&page=0#9135

林 住 記
所沢ビエンナーレとか(2008/09/10)
http://blog.goo.ne.jp/rinjuki/e/756d7b4fe343f9dad4b8cf2ed0bebbe6

朝凪のブログ
《引込線》所沢ビエンナーレ・プレ美術展(2008/08/31)
http://36146666.at.webry.info/200808/article_6.html

BLOG@137441
所沢ビエンナーレ「引込線」(2008/08/31)
http://137441.jonasun.com/mobile/post_691.php

石井秀樹建築設計事務所
所沢ビエンナーレ(2008/09/08)
http://isiarch.exblog.jp/9014217/

関心空間
所沢ビエンナーレ「引込線」 (トコロザワビエンナーレ ヒキコミセン)
http://www.kanshin.com/keyword/1543614

銭湯と路地裏散歩な日々
所沢ビエンナーレ『引込線』(2008/09/08)
http://blog.livedoor.jp/r32_takacyan/archives/51489189.html

シンジの作法
所沢ビエンナーレ(2008/08/28)
http://blogs.yahoo.co.jp/jedaiyogi/44284509.html

アルバム : 所沢ビエンナーレ・プレ美術展「引込線」(K-hirokiさんのページ)
http://photozou.jp/photo/list/175492/607743

所沢発 つれあい日誌
所沢ビエンナーレ引込線(2008/09/01)
http://ikiikitoma.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post_86ce.html

日記
所沢ビエンナーレ プレ美術展(2008/08/27)
http://kentarob.exblog.jp/8529998/

PAN‐FICTIONAL DOCUMENT
所沢ビエンナーレあるいはブルース的解体(2008/09/05)
http://mblog.excite.co.jp/user/cinemusica/entry/detail/?id=8569808

underconstruction
所沢ビエンナーレ「引込線」(2008/09/15)
http://wireplants.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-b6ea.html

東京シングルライフスタイル
所沢ビエンナーレ(2008/08/31)
http://grevyi.blog25.fc2.com/blog-entry-25.html

らっかのビア缶とお出かけ日記
西武鉄道旧所沢車両工場にて美術展(2008/08/30)
http://rakka-beercan.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/nite_70f2.html

KAWAGOE GALLERY
イベント(2008/09/10)
http://kg142.exblog.jp/tags/%E7%91%9B%E4%B9%9D/

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2008年9月 9日 (火曜日)

3000人とは

現在僕の参加しているグループショー「所沢ビエンナーレ・プレ美術展 引込線」おかげさまで大盛況!来場者数は3000人を突破との事。それだけにありがたい事にこの展覧会に関してのインターネットに上がる記述も多い。以下(順不同)
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ぶらり遊歩道 アートの落書き帳
「引込線、プレ美術展」のプレ宣伝(2008/08/20)
http://spacewalk.blogzine.jp/promenade/2008/08/post_c2b7.html
「引込線」展始まる(2008/09/01)
http://spacewalk.blogzine.jp/promenade/2008/09/post_5514.html

アートはどこにあるか
所沢ビエンナーレ・プレ美術展 引込線(2008/07/27)
http://blogs.dion.ne.jp/miu_k/archives/7433902.html

デッキで、こだまする、静寂。 Tattakaの日記

[シンポ]所沢ビエンナーレ・引込線 「今、なぜ引込線か」(2008-09-02)
http://d.hatena.ne.jp/Re-TATTAKA/20080902
[展示]所沢ビエンナーレ 引込線 (2008-08-29 )
http://d.hatena.ne.jp/Re-TATTAKA/20080829

la Casa del Lapiz:鉛筆庵
所沢ビエンナーレ・プレ美術展「引込線」〜!(2008/09/02)
http://blog.goo.ne.jp/rubicone/e/d3716d4ba2362d5ce2f72930769e172c
所沢ビエンナーレ・プレ美術展「引込線」〜"(2008/09/03)
http://blog.goo.ne.jp/rubicone/e/bb7fed3d5236bf5987bf6314fee0bc24

私のスケッチブック
引込線(2008/09/01)
http://cosyoken.exblog.jp/9601283/

Dialogue with the City 都市生活とアート
8月の終わり(2008/09/01)
http://hashimon.diacity.net/?eid=889275

毎日jp
美術展:ダイナミックな作品28点 
「引込線」を開催--旧所沢車両工場 /埼玉(2008/08/30)
http://mainichi.jp/area/saitama/news/20080830ddlk11040225000c.html

asahi.com
風通しよく、現代美術 自由な企画展、作家の手で(2008/09/03)http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200809030171.html

アートが丘
所沢ビエンナーレ・プレ展ー美術家の条件、作品の場所(2008/09/02)
http://blogs.yahoo.co.jp/hayavoir4324/54888400.html

ふうらん
所沢ビエンナーレ・プレ美術展「引込線」(2008/09/05)
http://eggi.at.webry.info/200809/article_2.html

ジモネット代表・平山毅のブログ
所沢ビエンナーレ 引込線(2008/9/4)
http://www.jimonet.co.jp/ceoblog/?p=565

WestEastの日記
所沢ビエンナーレ・プレ美術展 引込線(2008/08/21)
http://slashdot.jp/~WestEast/journal/449825

ちょっとだけみほ
駅からのびる引込線(2008/08/19)
http://miponet.typepad.jp/blog/2008/08/post-4286.html

ムサビ日記 - 広報のminx -
引込線 (2008/08/28)
http://www.musabi.com/minx/archives/2008/08/28_0106.php

TFJ's Sidewalk Cafe > Dustbin Of History >
Review: 『所沢ビエンナーレ・プレ美術展 引込線』 @ 西武鉄道旧所沢車両工場 (美術展) (2008/09/05)
http://www.kt.rim.or.jp/~tfj/DoH/2008090501.html

かきく日記
引込線(2008/08/31)
http://epicurien.at.webry.info/200808/article_2.html

thinking
引込線。(2008-09-02)
http://web-sahara.blog.so-net.ne.jp/2008-09-02

Blog
所沢ビエンナーレ・プレ美術展「引込線」(2008/07/14)
http://www.central-region.com/blog/2008/07/post_230.html

家庭新聞
所沢でビエンナーレ美術展・引込線(2008/07/09)
http://kateishinbun.com/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/404/

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2008年7月29日 (火曜日)

イングーの来日

青森県青森市に国際芸術センター青森という建築家・安藤忠雄氏設計によるアート施設がある。円形の特異なギャラリーを持つここは年に二回、春と秋にアーティスト・イン・レジデンス事業を行っていて、2004年には僕も参加し、二ヶ月半の間滞在し、制作し、展覧会を持った。今年秋のテーマは「月下の森」だそう。

で、何が言いたいかと言うと、昨年アメリカ・ヴァーモント州での滞在制作中に知り合った韓国人アーティスト、カン・イングー(KANG In-Goo:b.1973)がこの今年秋の国際芸術センター青森のアーティスト・イン・レジデンス・プログラムに選抜されたとのメール報告を受けたという事。当時、企画書を提出するよう勧めた経緯があるので素直に嬉しい。イングーは身近に在る些末なものを収拾、構築して巨大な立体作品を制作するアーティストで、ヴァーモントでの展覧会では敷地内の無数の小石を針金で一つ一つ丁寧に結わいて会場に敷き詰め、石とその影の斑点のチカチカチカっと混じる庭を披露した(下写真)。

アーティスト・イン・レジデンス2008/秋 「月下の森  Luna Forest」
展覧会期:2008年11月15日(土)‐12月14日(日)
※アーティスト滞在:9月24(水)ー12月20日(日)
国際芸術センター青森
http://www.acac-aomori.jp/

In

ヴァーモントではやたらとイギリス北部のアーティスト、アンディ・ゴールズワージー(b.1956)を好きな人が多かった。アンディ・ゴールズ・ワージーは、自然の中で発見される小さくて大きな驚き、その個人的な体験のレベルを拡大して作品化するアーティストである。田舎くさい。例えば巨大な雪玉の中に森で拾った木の枝をたくさん仕込み、雪が溶けると共に、バラバラと(まるで牛の死骸が朽ちて骨だけの姿になってゆくように)枝が現れて来る経過を写真に収めたり、小さな枝をクモの巣状に一つ一つその先端同士を接着してギャラリー通路に壁を出現させたりする。

アンディー・ゴールズワージー: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC

ヴァーモントで出会った中で一番その影響が顕著だったのが、ジョナサン・ブリリアント(b.1976)というアメリカ人アーティストで、「コーヒーショップのゴールズワージー・プロジェクト(the Goldsworthy of the coffee shop」という、スターバックスにある木製の使い捨てのマドラーや紙コップなどの様々な小物を用いてゴールズワージーの物マネをするシリーズを持っていた。

Jonathan Brilliant(ジョナサン・ブリリアント)WEBSITE
http://www.jonathanbrilliant.com

Ingooイングーの制作の全てを知っているわけではもちろんないが、彼もまたゴールズワージーの影響下に制作を行なっているアーティストだと言っていいと思う。しかし選択されるそれぞれの素材に鑑賞者が注ぐ記憶の質、想起される内容という意味では少し粘質的で、それだけにまったく異なるとも言える。ヴァーモント当時ポートフォリオで過去の作品を見せてもらったが、何千何万本とも知れぬ大量の爪楊枝で何やらでっかい立体物を作っていた。

ともあれ、慣れぬ日本での短期間スピーディな制作から展覧会に突入する日々はスリリングでありながらも大変だろう。がんばって欲しい。 (写真→イングー)
卓球うまい。

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2008年7月13日 (日曜日)

黒い本

Ed1 すでに終了した展覧会だが、東京・代々木、秋山画廊にて「敷物ー焼かれた言葉ー:遠藤利克」展を観た(2008/7/2~7/12)。このところ縁あってこの彫刻家の作品を観る機会に恵まれている。

この展覧会は新作ではなく1993年に制作された作品によるもの。未確認だが400冊くらいはあるのだろうか、タールが塗り込められバーナーで焦げ付きを与えられた分厚い聖書を思わせる本がギャラリー中央にぼてぼてと敷かれている。全体で四角い輪郭を形成する総面積は3.5×5メートルといったところか。5センチほどの高さを持つそれらの一冊一冊は場所によって一層から四層にランダムに積み重ねられぎこちない表面を作り、バーナーで焼け焦げ跡を付着させる際にページが飛ばないようにする為か、それぞれはその表紙からページを貫くようにビスで留められている。本同士の
凹凸の隙間には水を入れられた筒状の透明プラスティック製容器が10個ほど点在し煌めく。立ち込めるタールの居心地の悪い臭気が、半端に焼かれた作品の表面に、いつまでも乾く事のないじめじめじめっとした薄暗がりの日陰の腐りかけの畳のような印象を抱かせる。あまりに単純に過ぎる発想かもだが、本焼き行為からは「焚書坑儒」、或いは「華氏451度」が想い起こされる。しかしそれらとは異なる物語が発生しているのもまた確かな事だろう。

秋山画廊
http://www.akiyama-g.com/index.html
焚書坑儒:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%9A%E6%9B%B8%E5%9D%91%E5%84%92
華氏451度:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E6%B0%8F451%E5%BA%A6

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2008年7月 7日 (月曜日)

退屈な木々

東京・神楽坂、ユカササハラ・ギャラリーにて「原良介:ゆらめき地平面」展を観て来た。ここは以前まで小谷元彦や西尾康之など人気アーティストを扱うギャラリー、山本現代のあったスペースで、並ぶ隣の旧児玉画廊の場所にはMORI YU ギャラリーというのが入っていた。両ギャラリーの移転後ここに来たのは初めて。2001年に原良介(b.1975)氏が「東京ワンダーウォール」という東京都の主催するコンペティションで大賞を受賞した前後数年、幾度もこのペインターの作品を観る機会には恵まれていたが、今回は久しぶり。

当時の原氏の作品は、強い日差しに照らされた木々や人間の影の形象など-非実体的な具象的イメージを、支持体となる麻の白いキャンバスにたっぷりとした余白を残しながらさわやかな色とりどりの絵の具の物質性を強調した筆致で描き、鑑賞者の認識の確定を遅らせ続けるような絵画を制作していたと記憶しているが、久しぶりに観た絵画群はもはや影のモチーフや余白は用いず、かなり寓話的な要素を突出させているように映る。話を聞いたところ、以前のやり方では、還元的過ぎた為に限界が見えたので、とにかく画面・キャンバス全体を埋めてしまう事だけに的を絞り、制作を再出発したとの事。

Hara 寓話的なイメージを画面が与える大きな理由は描かれる風景の中で、しばしば登場する人物たちの仕草にあるようだ。人物像はどんな場合でも、物語を生み、比較的多くの支持者を得るように思うが、そういう連想ゲームには基本的に僕は興味がない。ここでは逆に登場人物のいない、縦構図の「landscape」と題された120号ほど(未確認)の森を描いた作品(右画像:yuka sasahara gallery HPより)に、コンセプトの定まった、つまり自我を乗り越えていくポイント/入口までの道のりがよく見定められた表現になっているように思われ、嫌が応にも目が行った。

キャンバスのかなりの部分(デティール)まで、たんなる絵の具でも見知った夢、連想ゲームでもない、仮象であり現実である「描かれたもの」という、第三の質感が現れ始めているように感じた。この絵は、縦長のキャンバスの下方から上方へと順番に、計画性を持たずに、この木の出現の後はどういう木を描こうというふうに、行き当たりばったりに描かれたという事だ。

制作途中、キャンバスの未だ埋められていない余白の形や量の制作者に与える重圧や開放感などが、既に描かれた内実への視線に影響を与えつつ、その余白と内実の際(きわ)で、新しいイメージをその都度産出させていったのではないかと容易に想像出来る。

当然「森」という具体的な物を描いているわけだから、作者の森に対する思念がキャンバス表面上には残留している事には違いない。実際そうした思念は、キャンバス平面上のその筆のさばき方や色の選択、木々の密集の仕方、木や枝、つるの種類等々々にあからさまに現れて来ている事も確認出来る。しかしそういった作者の悲喜こもごもの感情すら、前述した絵の具や物体としてのキャンバスなどのような絵画と言われる現象を構成する一要素として、等価に扱われている。

結果、中目のキャンバスのこの比率/この大きさは、この絵/この内実にとって唯一無二の立脚点を獲得し、この絵画なる物体を構成する絵の具や描かれる木々も同様に、互いとの適切な距離を見出し、そして渾然一体となった「landscape」と呼称するしかなかったものが現前したのではないかと推測した。

多くの鑑賞者にとってそれらの木々は、その他の展示された原作品と比較して、圧倒的に退屈に映るのかも知れない。ひょっとしたら制作者である原氏にとっても。しかし、真に見るべき何かが、この退屈さには潜んでいるように思えてならない。

原良介 ゆらめき地平面:Flickering Horizon(2008.7.5 Sat. - 8.9 Sat.)
ユカササハラ・ギャラリー
http://www.yukasasaharagallery.com

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2008年6月13日 (金曜日)

その違い

これ(下画像)は、現在開催中(2008/5/24〜 6/21)の清澄白河・SHUGOARTS「戸谷成雄:ミニマルバロック III」展に関しての、三田晴夫氏による毎日新聞2008年6月12日夕刊記事(画像クリックで拡大して読む事が出来る)。「ミニマルバロック」と、同氏の展覧会タイトルをエントリタイトルとしてこのブログにも少し触れたので、追記としてエントリ。(→2008/5/27エントリ「ミニマルバロック」

Morimori

この展覧会についての前エントリで僕は、過去の(森)シリーズの復活を遂げた戸谷彫刻、でもその違いってなんなんでしょ?って書いたが、ここでは・・

彫りの表面が従来とは様相を違えている

初期のような鋭さや迫力がやや影をひそめたものの、ざっくりと幅を広げたえぐりや、山岳地形を思わせるジグザグの起伏など、新機軸の手管がその不満を補って余ある。

と、その差異を強調、説明している。まあ、違えばいいってもんでも違わなければならないってわけでもないとは思うけど、SHUGOARTSの展覧会告知にも戸谷氏自身の言葉として

・・・・封印した「森」を「ミニマルバロック」の彫刻として再開する権利を得た、と思う。

なんて書かれてたりしてて、なんとなーっく「回帰」を強調されると、その変化、回帰にこそ何かが隠されているような気になって来る。

(また会期が近くなったらこのブログにも詳細を告知するが、今年八月末より九月に開催される、この戸谷成雄氏を含めた17名のアーティストによる展覧会「所沢ビエンナーレ・プレ展」に、私も参加〜作品出品の予定。)

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2008年6月 8日 (日曜日)

公の秩序または善良の風俗

すでに古いっというわけじゃないが、このブログにメモっとこうと思って忘れてしまっていてたニュースを思い出したのでまた忘れないうちに。

▼ねとらぼ:楽天ブログに書けない“NGワード”ーITmedia News(2008年05月14日)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0805/14/news079.html

リンク先、なくなっちゃうといけないのでまるまる以下に引用。

ねとらぼ:楽天ブログに書けない“NGワード”
楽天ブログに昨年末ごろから「NGワード」が設定された。「盗撮」「パンチラ」などを投稿しようとすると、「わいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています」と表示され、公開したり、下書きを保存できなくなる。
2008年05月14日 15時36分 更新

 楽天ブログに昨年末ごろから「NGワード」が設定された。一定のキーワードを投稿しようとすると、「わいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています」と表示され、公開したり、下書きを保存したりできなくなる。

 楽天によると「わいせつ、暴力的、差別的な表現など公序良俗に反する内容を含むブログ投稿を禁じる規約に抵触する可能性のあるキーワードを、投稿できないようにした」という。どの単語が“NGワード”に当たるかは非公開としてる。

編集部では「盗撮」「パンチラ」「強姦」が投稿できないことを確認した。これらの単語が含まれてればどんな文脈でも投稿不可能で、例えば「盗撮は絶対ダメ」「強姦はしてはいけない」と書いても投稿できない。

 ただ「レイプ」はNG設定されておらず「レイプしたい」なら投稿できた。このほかにも、わいせつとされる表現や「差別語」といわれるいくつかのキーワードで試してみたが、たいてい投稿できた。

 「livedoor Blog」や「はてなダイアリー」には、NGワードはないという。ライブドアとはてなは「公序良俗に反する投稿の対処は、別の方法で行っている」としている。

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2008年5月27日 (火曜日)

ミニマルバロック

清澄白河・SHUGOARTS「戸谷成雄:ミニマルバロック III」展を観た。久々にオープニング・レセプションに赴く。近年の(?)新しいもの嗜好で、日本のアート界は、若手若手、次から次へと新人アーティストばかりに焦点を当てたがるが、戸谷成雄(b.1947)は、未だ、日本を代表する彫刻家、と、呼ばれるアーティストの1人である。近年シリーズ化している「ミニマルバロック」(「ミニマル」と「バロック」という相反する言葉を繋ぎ合わせた造語)でありつつも、80年代半ば〜90年代に数多く制作された戸谷氏の代表シリーズ「森シリーズ」の、まさに復活と言える展示内容。高さ2.5メートルほどの木彫が整然と、しかし迫力満点にギャラリーをいっぱいに使って並べられていた。私はもう久しく過去の「森シリーズ」の作品を観ていなく、そもそもその体験の数も少ない。だから過去に出版された戸谷氏の作品記録集に頼るしか今は道がないが、その違い、過去制作された作品と比較して、今回のものが如何に異なった意識の元に作られ、如何に異なった様相を見せていたかは皆目わからなかった。ギャラリーに赴いての実作品の鑑賞にそんな事は必要のない事なのかも知れないし、実際、そんな事は期待されてもいないのかも知れないが、それはわからない。

▼SHUGOARTS:戸谷成雄/ミニマルバロック III:2008年5月24日(土)〜 6月21日(土)
http://www.shugoarts.com/jp/current.html

▼Culture Power/ インタヴュー:戸谷成雄×岡部あおみ 
http://apm.musabi.ac.jp/imsc/cp/menu/artist/toya_shigeo/interview.html

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2008年5月18日 (日曜日)

調合薬

pharmaceutical [形](またphr・ma・cu・tic)薬学の;薬剤の;薬局の. ━━[名]((通例~s))調合薬;製薬. phar・ma・ceu・ti・cal・ly[副](Yahoo!辞書より)

Ushi こないだ行って、それからこのブログにも書いた(→5/12のエントリ)現在森美術館で開催中の「ターナー賞の歩み」展、の、会場を巡りながら書こうっと思ってて書き忘れてた事を追記。またまたダミアン・ハースト(b.1965)の事だけど。この展覧会には数あるシリーズの中で、キャンバスに色とりどりの円を整然と描いた「Pharmaceutical」と、死んだ動物を切断したりして保存するシリーズ「Natural History」の中でも特に代表視されるホルタインの牛の親子とおぼしき(多分違う?)牛と子牛の二頭を、頭の先からお尻の先までまっ二つにし、それぞれをホルミアルデヒトの水溶液(ホルマリン)に入れた作品「Mother and Child, Divided」(1993)が出品されていた。そして会場壁面には先述のキャンバス絵画と並んでアーティストと作品を紹介するキャプション・ボード。そこには(確かな言い回しは忘れたが)、「このキャンバス絵画は薬品を思わせるタイトルが付けられてはいるが、ペイントされた色彩はアーティストの思いつきによるもの」というような事が書かれていた。また、後述の牛の作品(→右写真:Tate Britainホームページより)は、私が昨年ロンドン、テート・ブリテンでの展覧会で観た時は、二つに分けられた牛の身体の真ん中を鑑賞者が通り抜けられるようになっていて、その如何とも形容しがたい「生」の形の保存の有り様に見入ったものだったが、森美術館では立ち入り禁止だった。

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2008年5月12日 (月曜日)

英国美術の現代史:ターナー賞の歩み展

1 森美術館HP
http://www.mori.art.museum/jp/index.html
Tate Britain
http://www.tate.org.uk/britain/

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東京・六本木、森美術館で開催中の「英国美術の現代史:ターナー賞の歩み展」を観た。この展覧会は昨年10月のロンドン滞在中にテート・ブリテンで観た「Turner Prize: A Retrospective 1984-2006」(2 October 2007 – 6 January 2008)の巡回展である。が、何の都合か何の趣向か、少なくないアーティスト(トニー・クラッグ、レイチェル・ホワイトリード、リチャード・ディーコン、アントニー・ゴームリー他)の作品がロンドンで観たものとは異なっていて、私的にはお得感アリ。さらにやはり昨年、リバプールでの2007年のノミネート展で観たマーク・ウォーリンジャーの、ベルリンの美術館を檻に見立てて、熊のキグルミが闊歩する様を撮影したビデオ作品に再会出来たのもよかった。帰りTSUTAYAの本屋に寄ると、この展覧会開催中って事もあってか、出品者、イギリスの現代アーティストの画集がたくさん。中でもダミアン・ハーストの図録が見た事のないものも含めて多いのが印象的で、大量生産工場のような仕事っぷりに感心しつつ、量産の必要性に疑問符。

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2008年4月20日 (日曜日)

みかんとバロー

080409artgene_1_6080409artgene_2_3 昨日(4/19)土曜日は、建築設計事務所「みかんぐみ」の『Art Gene報告会“Mikan-in-Residence”』を聴きに横浜・馬車道駅前のBankART1929に。Art Geneは、去年9〜10月に僕がアーティスト・イン・レジデンス(滞在制作事業)で滞在していたイギリス、北西部・バローにある施設。“みかんぐみ”のメンバーであ る四人は、僕が滞在したすぐ後、ほとんど入れ替わる感じで、昨年11月から今年3月までの間、順番に一人およそ二週間ずつ、滞在していたらしい。まだまだ現地をリサーチ、というかバローの雰囲気を感じて来たというくらいで、これからバローという街で何が出来るかを時間をかけて具体的にしていくという段階との事。バローは古い工業街であり、産業革命当時はかなりお金の動いた土地であるが、現在は巨大な(おそらく数百億の投入される)原子力潜水艦の製造工場という以外は、終わってしまった“うらぶれた”都市であり、いま街は観光等を目玉に再生の時代を築こうとしている。また、14世紀頃の城跡などの遺跡も少なくなく、少し郊外に出ればピーターラビットの里のような自然が溶け込んだ、何と言うか、漫画家・大友克洋の劇場版アニメ「大砲の街」(1995年制作映画「MEMORIES」と同時上映)のようなところでもある。“みかんぐみ”とArt Geneのバローヘの関わりは大公共事業へ発展するような種類のものではないという事だが、さて、行く末が楽しみだ。

Art Gene報告会“Mikan-in-Residence”チラシ掲載文▶「イギリスの北部イングランドのバロー・イン・ファーネスという場所にある、アートジーンというアートカウンシルに招待され、みかんぐみからそれぞれのメンバーが交代に、2007年11月1 日から2008年3月5日までの期間滞在してきました。
バローは、イギリスの湖水地方の南、また自然の豊かな海辺の町で、原子力潜水艦の基地の町です。そこには、18世紀からのテラスハウスが建ち並んでいて、 まちの表情をつくっています。アーティストである彼らは、そのテラスハウスを題材にアート活動を行うことで、まちの活性化したいと思い、建築家と共同でプ ロジェクトを立ち上げたいと考えていました。

プロジェクトは、これから継続的に続けられる予定で、まだ取りかかったばかりですが、滞在をとおして感じたこと、これからの活動のことの中間報告をさせて頂きたいと考えています。」 

(以下“Art Gene”と“みかんぐみ”の説明文BankART1929 mail news - Vol.231」より)
Art Gene
アーティストのSturt BastikとMaddi Nicholsonらが立ち上げたart councilで世界の数々の国からアーティストインレジデンスを行い、アート活動を続けている。
http://www.artgene.co.uk/ 
(日の丸のアイコンをクリックすると日本語のページがあります。)
みかんぐみ
加茂紀和子、曽我部昌史、竹内昌義、マニュエル・タルディッツの4人のメンバーによる建築設計事務所。本町ビルシゴカイに事務所がある。
http://www.mikan.co.jp/ 

.........................
以下は僕のバローでの制作滞在記
http://hajimemizutani.cocolog-nifty.com/blog/art_gene_1/index.html

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2008年4月16日 (水曜日)

くるっとまわっていっかいてん

222 もう終わってしまったが、というか報告がずいぶん遅れたけれど、先月末(3/30)日曜日、AAN(アート・オウトノミー・ネットワーク)主催で、「ふたつのアートミーティング」という企画の一つ、横浜のZAIMという施設で開かれた「ポートフォリオ・ミーティング」に参加して来た。天野太郎(横浜美術館主席学芸員)、住友文彦(東京都現代美術館/アーツイニシアティヴトウキョウ(AIT))、Colin Guillemet (PILOT)のお三方をゲストに、16名のアーティストが、それぞれ5分間のプレゼンテーションを行ない、引き続き5分間ゲストと共にディスカッションを繰り広げ、観客はそんなこんなを観戦っというもの。早い話がプレゼン大会。なんつーかアーティスト傾向いろいろ過ぎてビックリした。AANのポートフォリオ・ミーティング宣伝文は以下。

「アーティストが活動のチャンスを広げるためにキュレーターや観客の前で公開プレゼンテーションを行います。ポートフォリオや画像を活用してアーティストが 自分の言葉で作品について発表していくものです。アーティストは、他者の目を通して自作を再認識し、国際的なキャリアを築くためにキュレーターと実践的な 意見交換をしていきます。・・(中略)・・これまで作品を鑑賞するだけの立場であった観客が普段出会うことのないアーティストやキュレーターと直接話すことで、コンテンポラリー・アートに 触れる機会となります。」

AAN(アート・オウトノミー・ネットワーク)▶http://www.a-a-n.org/

もちろんこうした目的が主催者側にはあり、参加するアーティスト各々もおそらく多分少なからず何か個人的な“参加する目的”を持って、このイベントに臨んでいたのだと思う。ぶっちゃけアートファンかアートを商売にしようとしてる人々を対象にしたイベントではあるのだと思うけれど、なんとなく、何かそれを越える、つまりそれ自体が目的化したイベントと捉えて展開してもいいんじゃないかな、と、思った。具体的な前述したようなイベント目的を排除する事で、アートを興味のある人の為だけに在るものではなくって、興味のあるなしに左右されないものとして存在させる事が出来ないかなと。先日観客として聞いて来た世田谷美術館での「存在」をテーマにしたシンポジウム(→過去エントリ)は(全公演を観戦出来なかったのに言うのもなんだが)、際立って“なんのために?”開催されているのかが見えないイベントだった、に、も、関わらず、ヘタなグループ・ショーを観るよりもずっと充実していたように感じた。それはAANの「ポートフォリオ・ミーティング」しかり。雑多である事がそのままイベントを作っているようだった。

▼『くるっと・まわって・いっかいてん』歌:キグルミ
アニメ「ケロロ軍曹」第155話(2007/4/7)〜第168話(2007/7/7)エンディングテーマ

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2008年4月10日 (木曜日)

このゴロ展覧会あれこれ

川俣正:通路 展(東京都現代美術館
通路 会場中にベニヤの壁を配しまくり、鑑賞者、というか何を観るべきか、何が作品か、何がアートなのか、明確に示唆されない観客達の歩く導線を様々に作り、遮り、たくさんの足を使わせ隈無く歩かせ迂回させ、その先にあるだろう期待を裏切り、数々の発見を促すという趣向の展覧会。数々の発見とは高い壁で閉塞的な通路の先に広がるぽっかり空虚な空間であったり、幾らかの点在するラボと呼ばれる何らかの研究団体の発表だったり打ち合わせだったり、それから至る所に散在する写真やアイディア・スケッチ、模型、ドキュメント・ムービー等による川俣正の活動の歴史資料群などの事。川俣正というアーティスト、或いはアートというものへの「信頼」なしでは観る事が出来ないって気がした。なんだか疲れたという記憶ばかりが蘇る。

MOTアニュアル2008:解きほぐすとき 東京都現代美術館
Tokihogusu 毎年行なわれる、若手アーティストの作品出品を中心としたアニュアル展覧会(annual:[形] 1 年1度の, 例年の, 年次の;年中行事の→Y!辞書 )。今年の出品者は金氏徹平、高橋万里子、立花文穂、手塚愛子、彦坂敏昭の5人で、テーマは「解きほぐすとき」。展覧会冒頭の解説を読むと、なんか聞き覚えが・・っとそう言えば去年の国際芸術センター青森、秋のレジデンス・プログラムのテーマ「裏糸」にも似てる。展覧会パンフレットによると「解きほぐし、読み解く行為を通じ、自分なりに世界の輪郭を捉えようと試みる5人の作家を紹介」との事。このいかようにも転び得る「自分なりに」という言葉が気になる。

ヴィヴィッド・マテリアル 展(東京藝術大学美術学部中央棟2Fアトリエ)
(出品作家)名和 晃平、池田 剛介、大庭 大介、塩原 れじ、田幡 浩一、(企画監修)木幡 和枝、(キュレーション)粟田 大輔。先日来日が中止された思想家、アントニオ・ネグリ来日〜関連イベントのひとつとして企画されたという、小作品で構成された展覧会。会場に表題などを示すキャプションを発見出来なかったので、いくつかの作品で作者が誰なのか、確たる事は言えないのだけど、初めて観た(たぶん)塩原れじ氏の映像作品にちょっと惹かれた。一人の女性の上半身撮影のポートレイト。笑いながら、回旋塔でも使っているのか(?)揺らめきながら回っている。奇妙な浮遊観。しかし大きさや形状の決定権は、何がどうして握っているのだろう、と、いうのは、この展覧会のかなりの作品において、そして先に書いた現美アニュアルのほとんどの作品にも同様に覚えた感覚である。展覧会のデザインか、販売か、或いは他の理由か、スケールや形状を決定しているものが実際一体何なのか見えない、、って言うか全部の要素がパチーっと何でもいいけどそのアーティストの表現という一点で結実してるものがそろそろ観たい。

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2008年4月 5日 (土曜日)

世田谷美術館にて

「存在」という漠然とした、というか、巨大な、重量感のある、膨大なイメージを持つ言葉をテーマとして掲げたシンポジウム(Personal Structures主催)を聞きに、先日四月二日、桜の舞う東京は世田谷の世田谷美術館まで行って来た。数人のアーティストが一人ずつ約40分間「存在」というテーマについての考えを披露するというもの+対談。『シンポジウム』をY!辞書で引くと《聴衆の前で、特定の問題について何人かが意見を述べ、参会者と質疑応答を行う形式の討論会。語源はギリシア語のシンポシオンから。》。『symposium』は《1 ((形式))(聴衆の前で行う)討論[談話, 座談]会, シンポジウム. 2 ((形式))(特定の問題の)評論集;討論会の記録. 3 (古代ギリシャ・ローマにおける)酒宴, 宴会;『饗宴』(プラトン作). ・・》。うん、なんか数人で討論したり座談会したりってイメージあってるよね。や、確認として。ま、ともあれ、最初の一日しか行けなかったけど、二日間の日程(4/2~3)で、どういった基準の人選が行なわれたのかものすごく疑問だが、美術の教科書級の大御所から、無名所まで様々々。行った日はコンセプチュアル・アーティストの代表的人物の一人、ジョセフ・コスース(Joseph Kosuth: b.1945)と、現地制作を中心に、制作過程を重視した作風で世界を舞台にするアーティストでありながら、2005年の横浜トリエンナーレのディレクターも務めた川俣正(b.1953)の二人による対談って目玉もあるし〜って行ったのだけども残念ながら、パリ在住の川俣正氏がスケジュール上帰って来る事が出来ず中止・・。でも何故か司会者から外国人、喋りも外国人らしく英語、アーティストも数人外国人なのにも関わらず、何故か何故か「英語→日本語」の通訳も「日本語→英語」の通訳もナシナシ(´;ω;`)。だから多分対談も英語のみ通訳ナシで、実際予定通り実施されたとしてどれだけ聞き取れたか相当怪しいっので、ま、いいか。日本語で行なわれた→彫刻家の遠藤利克(b.1950)氏の思想を自作による図表で解説し、一人の彫刻家として、言葉と供犠(くぎ:神に、いけにえを供える宗教的・呪術的(じゅじゅつてき)儀式。また、そのいけにえ。きょうぎ。→Y!辞書より)と空洞(不在の在に生じる想像力)の概念を使って「存在」を規定し、自作を展開して来た話も面白かったし、そして岡部昌生(b.1942)というアーティストの発見があったのはよかった。

岡部昌生わたしたちの過去に、未来はあるのか―The Dark Face of the Light 岡部昌生わたしたちの過去に、未来はあるのか―The Dark Face of the Light

販売元:東京大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

昨年2007年の第52回ベネチア・ビエンナーレに、日本パビリオン(港千尋キュレーション)で参加したアーティストである。岡部氏は、様々な土地や物を、紙や布に鉛筆やクレヨンでフロッタージュ(上から擦り付けて形や肌合いを浮かび上がらせる絵画技法)する制作を、なんと30年もの間継続している。迂闊な事にというか不勉強な事に、昨年ベネチアに参加した事は知っていたが、どういうアーティストであるか、ほとんど無知であった。シンポジウム後、思わず東京大学出版会出版の作品(活動)集(¥3,800)を買ってしまったが、その30年間、かなり活発に活動を続けていたようだ。時流とか流行とか美術的な文脈とかとは一線を画した地平に立った思索の展開であった為に、旺盛な活動の反面、メディアにあまり目立って来なかったのではないかと予想されるが、どうなのだろか。紙と鉛筆を使用、描画された物体を物体としてインスタレーションするやり方、どれも私のある方向性と、パッと見類似していると言えるが、まったく異なるコンセプトである、が、しかしそれでも発想、思想の方向に共通項は多々あり、あるからこそスゴく明確に浮かび上がって来る差異が面白いと感じた。岡部氏の作品は、生身の身体の存在が作品に力を与え続ける事を印象付けながらも、鉛筆を走らせたその個人(作者)の作業・時間・生の帰結としての「現れ」自体にというよりも、その事象、そうした事が行なわれたというその行為(パフォーマンス)にスポットを当てる事で、その都度の「場所(特定の/選ばれた)」に眠っていた想像の可能性を発掘する。

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2008年4月 2日 (水曜日)

The Big Wheel

小田急線「向ケ丘遊園」駅を降りて10分ほどゆるやかな坂を上ったところに桜のきれいな生田緑地という場所がある。その敷地内にある川崎市岡本太郎美術館に、岡本太郎現代芸術賞を観に行ったのは久しぶり。今回は第11回。訪れたのは2004年の第7回に自分が出品して以来の事。その当時とは賞の名称も審査員も様変わりし、現在は美術評論家であり多摩美術大学准教授の椹木野衣氏、同じく評論家でありながら明治学院大学教授の山下裕二氏、ワタリウム美術館キュレーターの和多利浩一氏など。今回の太郎賞(最高賞)はKOSUGE1-16というアートユニットの「サイクロドロームゲームDX」。自転車のレーシングゲームで、備え付けの実際の自転車を漕ぐ事で、小さな模型の自転車レーサー達が、木材で作られたサーキット上で熱戦を繰り広げるという、観客参加型の作品である。会場で配布されている冊子には審査評として、誰が書いたのか知らないが(明かされていないが)次の事が書かれていた。

コミュニケーションをテーマとする参加型の作品でありながら、ありがちなコンピューターや映像を用いる事なく、インタラクティブな効果を実現した力感あふれる作品である。素材も、アナログ感を強調する為に木材を用いて荒々しく仕上げており、作品にもコミュニケーションの方法にも強さを感じる。楽しさ、強さ、スリリングさなどをあわせ持つ岡本太郎賞にふさわしい作品である。

このコメントを読んで、根本的に全く全然異なるが、アメリカのスターの1人(!?)、アーティスト、クリス・バーデン(Chris Burden: b.1946)のバイクでデカイ車輪を高速回転させる痛快な作品「The Big Wheel」(1979)を思い出した。逆に言うと当のKOSUGEさんの作品には審査評のような事を感じなかった。審査員さん達は「The Big Wheel」のようなイメージを重ねていたのだろうか?「The Big Wheel」は以下のYouTube動画で見ることが出来る。

川崎市岡本太郎美術館▶http://www.taromuseum.jp/
KOSUGE1-16http://homepage.mac.com/kosuge1_16/
Chris Burden: From Wikipedia, the free encyclopedia▶http://en.wikipedia.org/wiki/Chris_Burden

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2008年3月14日 (金曜日)

深層→深い層。奥深くに隠れている部分。(Y!辞書より)

先日書いた遠藤利克展について毎日新聞に展覧会評が載ってた。以下は毎日新聞ウェブへのリンク(全文が読める)。
毎日jp:遠藤利克展 深層を透かし見せる水面(毎日新聞 2008年3月10日 東京夕刊)
http://mainichi.jp/enta/art/news/20080310dde014040018000c.html
下のこまっかい字の画像クリック〜拡大でも。しかしこういう展覧会は展評の載る媒体が限られていて、というかほとんど決まっていて、いわゆる美術誌一般には嫌われているよな気がするのは作家の頑固っぽいイメージからなのかなぁ。

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2008年3月10日 (月曜日)

「空洞説 IV」展

Tete 最近見た展覧会の一つ。東京・代々木、秋山画廊にて遠藤利克「空洞説 IV」展。巨大な、最大では2メートルもの壷が23個。それらが会場奥に設置されたまるで月のような青白い一つの電球に照らされて黒いシルエットを浮かべ、重いがしかし柔らかな影達は無国籍で時代性を想起させぬまま群衆の気配を感じさせる。壷とも瓶(カメ)とも言えそうなそれらそれぞれの壷の内部には淵ギリギリまでたっぷりと水が注がれ、表面張力で浮き上がったその表面は、展示してあるから当然なのだが、何らかの意思により当然の事象ではないかのごとくピタッと静止しており、鑑賞者の時間を止める。アラビアン・ナイトの世界に迷い込んだかのような劇的な空間演出に息を呑む。床に散在する水たまりと水によって濡れ、踏み散らかされたいくらかの泥がその印象を後押しする。かと言ってここでどこぞの劇団の演劇やダンスが繰り広げられるとか、音楽のイベントがあるとか、物語や詩の朗読があるとかなどという事はもちろんない。姿こそ見せないが物語はすでにそこにあるのだろう。きっと。

▼秋山画廊ホームページ「AKIYAMA Online」内、遠藤利克「空洞説Ⅳ」展紹介ページ
http://www.akiyama-g.com/exhibition/documents/47.html

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2008年1月19日 (土曜日)

ターナー・プライズ2007はマーク・ウォーリンジャー

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昨年、アートジーンのアーティストレジデンシー・プログラムに参加した際、訪れたテイト・リバプールで行なわれていた展覧会「ターナー賞2007」(→過去エントリ)。今日とっても久しぶりに雑誌・美術手帖を近所の書店で購入しAround the Globe(海外アート情報)のページをめくって、2007年去年の勝者がマーク・ウォーリンジャー/Mark Wallinger(b1959)に決定していた事を知った。まったくすっかり忘れていてチェックを怠っていた。とっくに結果出てたんだってまそりゃそうか。

ターナー賞とは、テート・ギャラリーが主催の、イギリス在住で50歳以下の現代美術作家に与えられる、19世紀イギリス、ロマン主義の画家、ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)の名を冠した賞である。受賞者のみならず過去の出品者には、リチャード・ロング、レイチェル・ホワイトリード、リチャード・ディーコン、トニー・クラッグ、ルシアン・フロイド、リチャード・ウィルソン、アニッシュ・カプーア、サイモン・パターソン、クリス・オフィーリ、ギリアン・ウェアリング、ギルバート&ジョージ、アントニー・ゴームリー、デミアン・ハースト、ダグラス・ゴードンなどなどなどなど(順番がめっちゃくちゃだが)蒼々たる面子が顔を並べる。去年の10月、運良く私はテート・ブリテンでこのターナー賞のレトロスペクティブ(過去の受賞者を振り返る企画展)を見る事が出来た。

去年ノミネート・アーティストの展覧会を見たときのエントリにも書いたが、マーク・ウォーリンジャーは今回のノミネートでは熊の着ぐるみを着たパフォーマンスでダントツに存在感を放っていた記憶がある。彼は90年代にYBA(Young British Artists)として注目を集め、集め続けているアーティストの一人である。そうそう画集も買ってたんだっけ。上の画像はBBCニュース・ウェブサイト(bbc.co.uk: 12/03/2007)より。このBBCの記事からマーク・ウォーリンジャーのインタビューのビデオなどなど見ることが出来る。

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あっ、テート・ブリテンで去年やってたターナー賞回顧展 1984-2006森美術館に巡回して来るらしっ▶2008年4月26日か〜7月13日 森美術館ウェブサイト
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テート・ギャラリー:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC

Mark Wallinger: From Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Wallinger

Turner Prize: Tate Britain(歴代のターネー賞なども見れる)
http://www.tate.org.uk/britain/turnerprize/

BBC NEWS: Mark Wallinger wins Turner Prize(インタビューほかリンクあり)
http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/7124575.stm

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2007年12月17日 (月曜日)

証人は真実を述べる事を宣誓させられた

THE WITNESS WAS SWORN TO TELL THE TRUTH Rmg02ss▲"NO TITLE OR NOT YET" Nov. 2007 

展覧会の写真をフリッカーに、それからビデオ作品の一部をエキサイトのドガログにアップ。
▼Flickr: vermont_works_2007 
http://www.flickr.com/photos/16355907@N05/sets/72157603347320244/

▼ドガログ: 5 MINUTES PRISON: SAID: 5 minutes, 2007

HAJIME MIZUTANI SOLO SHOW
THE WITNESS WAS SWORN TO TELL THE TRUTH
DECEMBER 14 THROUGH 17, 2007 RED MILL GALLERY
Vermont Studio Center: 80 Pearl Street, Johnson, VT 05656 USA: tel→802.635.2727

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2007年9月 4日 (火曜日)

書院の美

先月(8月)に観たいくつかの展覧会について、ブログでほとんどまったく触れていなかったので、少しずつ。出来るだけ。

東京藝術大学美術館にて「金刀比羅宮書院の美」展。今年一月に香川(直島ほか)を訪れた時(参照)に観た(が、しかし、襖のある部屋をガラス越しに廊下から距離をもって観ざるを得なかった)円山応挙の襖絵「遊虎図」を近距離で確かめる事が出来(やはりガラス越しではあったが)、普段観る事の出来ない(公開されていない)奥の院の、伊藤若冲の、あの、植物図鑑のように様々な草花を金色の壁面に等間隔でグリッド上に配置した「花丸図」に、初めてお目にかかる事が出来た。

やはり応挙のこの虎は・・うん。ころころ漫画してて可愛いとかどうでもよろし。香川の、金刀比羅宮の長い階段を延々と登った先のしっとりと埃の落ちた表書院に、襖として今なお機能し、自然光の暗がりのなかでインスタレーションされた重々しい雰囲気を放っていたその毛穴を、ここへ来てまじまじと、見た、と、言うかなんと言うかかんと言うか、冬場に冷たい雨を浴びてビシャビシャになった息の熱く荒いでーっかいゴールデンレトリバーの、水と砂のたくさんつまった体が四方から押し寄せて来るような、分厚い洗車場のような絵だった。いやいや、まったく嫌な印象を持ったというのではなく、むしろ逆で、この体験を踏まえて、もう一度金刀比羅宮、表書院に出かけてみたくなった。

応挙の展示を通り抜けると現れる、金刀比羅宮書院の間取りを美術館内に再現させ、襖絵を配した一連の展示には、う、うん、うん、ビックリした。愕然としたと言った方が適当かも知れない。すごく無粋な感触を持ったのだ。もともとの設置状況を再現、体験出来るように施す展示に出会うのはもちろんこれが初めてではないし、その中でもおそらく上出来の部類であろうとは思う(僭越だが)。だからこの打撃は、一重に私の側にその知覚の要因がある事は疑いようがない。そういう風に感じるタイミングだったのだ。私はそこで、その時、そして今も、襖絵として限定された部屋の為に、そしておそらくは限定された人々の為に、制作され、設置された作品を、「運べる」からといって運ぶ事、運んでしまう事の横暴さを見つけられた思いがしたのだ(パリにまで巡回するらしい)。それは応挙も、若冲も含めてやはり、そう思う。円山応挙という名前や、伊藤若冲という名前や、岸派という名前ばかり、つまり人間業ばかりに焦点を無理矢理に合わせて、何か、大事な事柄に目を瞑っているような、それを覆い隠そうとする美術品への視線の痛々しくも強い腕力を見せつけられたように思えた。

これは次の巡回地である金刀比羅宮の、普段非公開の奥書院・特別公開(2007年10月1日(月)〜12月2日(日)[前期]、12月29日(土)〜2008年1月31日(木)[後期])は是非とも行かなきゃである。
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金刀比羅宮 書院の美 — 応挙・若冲・岸岱 —
会期:2007年7月7日(土)-9月9日(日)
午前10時〜午後5時(入館は閉館の30分前まで)/月曜休館
会場:東京藝術大学大学美術館

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朝日新聞社「金刀比羅宮 書院の美」展ホームページ
http://www.asahi.com/konpira/

東京藝術大学美術館「金刀比羅宮 書院の美」展ホームページ
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2007/kotohiragu/kotohiragu_ja.htm

金刀比羅宮ホームページ
http://www.konpira.or.jp/menu/master/menu.html

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2007年8月14日 (火曜日)

火のない所に・・

Cai Guo-Qiang: Head on Cai Guo-Qiang (Contemporary Artists)   ちょっと前になるが、銀座、資生堂ギャラリーにて「時光 -蔡國強と資生堂」展(8/12に既に終了)を観た。蔡國強(b.1957)は言わずと知れた中国を代表する美術家の一人である。今回のインスタレーションでは、代表的な作品シリーズの一つ、火薬を和紙の上で爆発させて絵柄を浮かび上がらせる大きなドローイング数点が壁面に展示され、そして、天井から吊った小さな沢山の金の小舟(タイトルが「九十九の黄金舟」なので多分99個あるのだろう)が、蜂の群れの軌跡を追うように、滑らかな曲線を描き、飛んでいた。奥の小部屋では、資生堂が蔡國強を支援を続けて来た1994年からの業績を年代順に紹介するビデオ。
Cai Guo-Qiang   金の表面が柔らかに周囲の風景を反射する、透き通るような、しかし存在を確かに感じる事の出来る小舟が、優雅に会場を飛び回り、ドローイングの内の空間と現実世界をまるで行き来するような展示構成、カタログに収録された写真では到底伝え切る事の出来ない豊穣な空間演出は、思わず息を呑んだし、業績を紹介するビデオの、さまざまに火薬を爆発させるインスタレーションやパフォーマンスは、記録映像であるにも関わらず、その音と光、煙は、圧倒的な印象をこちらの胸に刻み付けた、が、しかし、その衝撃性の要因と思われる何かと、彼の考える正義、の、ようなものの間に、剥離があるように私には思えてどうにもすっきりしない(剥離がなければそれで良いのか、と、いうと、それもわからないけれど)。
 壁面展示されたドローイングしかり、春夏秋冬をテーマに描かれたという四枚と、時光(中国語で歳月という意味らしい)をテーマとした比較的小さな一枚。春夏秋冬が何故どうして火薬を爆発させる事で描かれなくてはならなかったのか。

蔡國強.COM▶http://www.caiguoqiang.com

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2007年7月29日 (日曜日)

白い光に、

Hsshowサンフランシスコ、ゴールデンゲート・パーク内にある、デ・ヤング美術館に訪れた。厳格なコンセプトの下に、写真を中心として活動する日本人アーティスト、杉本博司(b.1948)の回顧展が現在、開催中である為だ。2005年9月から2006年1月にかけて、六本木、森美術館で開催された「杉本 博司:時間の終わり」展の巡回展という事だろうか、ちょっとはっきりわからないが、ともあれ代表作がずらりと並び、かなりの充実度。森美術館の展覧会にはタイミングが合わず、行く事が出来なかったので、今回この展覧会に出会えたのは良かった。展示会場の面積ぎりぎりの、もうこれ以上、あと一点でも追加して展示をしたら、ごちゃごちゃ見づらいインスタレーションになっていたのでは、と、思わせる、ギリッギリの飽和点のインスタレーションは見事としか言いようがない。作品を始めとした展示会場内の光の当たっている部分すべてが、のっぺりとした、現実味をまるで失った、ただの白い色、に、見えた。写真シリーズによらず、また、金属製の彫刻の作品ですら、ピカッとひかったその点、そして面は、死んだ光とでも形容出来そうな白で、あとは闇しかなかった。

▼de young: exhibition: Hiroshi Sugimoto: July 7, 2007- September 23, 2007
http://www.thinker.org/deyoung/exhibitions/exhibition.asp?exhibitionkey=658

▼Dialogue:美術館建築研究[7]アートの現場から[4]杉本博司+青木淳
http://tenplusone.inax.co.jp/dialogue/007sugimoto/dialogue7_1.html 

Rich01_4 そして、驚いたのがこの美術館、なんとゲルハルト・リヒター(b.1932)の2004年の大作「Strontium」(右写真)をコレクションに持ってるって事。し かもタダで見れるっ。知らなかった。。エントランスを入って左、気が付くとドスーンンっとそびえ立っているそれに、不意をつかれ、ただただビックリ。そし て近づいて、その強烈な、まさに放射性物質でも放つかのような、カラカラに乾いた光の催眠に、クラ、クラ、と、やっぱり、、ビックリ。

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2007年7月27日 (金曜日)

真空の

六時のハンバーガーの夕食後、満腹で眠くなりながらも、五時半からのアニアス・ワイルダーさんのサンフランシスコ、エクスプロラトリウム・seeing galleryの展覧会オープニング・パーティに出かけた。アニアスさんは先日の私のトークショー、それからオープン・ハウスに観覧に来てくれた、様々な国のアーティスト・イン・レジデンスを渡り歩き、活動するアーティストである(2007/7/20エントリー参照)。夕方五時半からのパーティに夜七時前に到着したという事が、けっして原因とは思えないが、広々としたエクスプロラトリウム会場の真ん中で、テーブルが散在し、ワインやらビールやらが振る舞われ人々がバラバラとぼそぼそと歓談する様は、オープニングのパーティというには何だかとても寂しそうで、勤務後の簡単な慰労会といった趣き。作品の展示ギャラリーも、巨大倉庫のような建物の片隅に小さく、6×7メートルくらいだろうか、壁で仕切られたスペースで、天井の異様な高さに違和感を覚える。
Aw 接着剤や釘、ネジなどを一切使わずに、太さ同一、様々な長さの木材を組上げ、積み上げ、ギリギリのバランスで重力と折り合いを付けた、とても緊張感のある構造物がアニアス・ワイルダーさんの作品であり、今回の展覧会では球形(右写真参照)の姿をしてそこに在った。このエクスプロラトリウムという場所は、ミュージアムではあるが、言ってみれば子供科学博物館といった趣向のミュージアムで、雲の生成や、砂漠の砂があの滑らかな景色を生み出す過程を簡単な装置によって、楽しく体験する事が出来る。その一連の流れでアニアスさんの緊張の作業の末、組上げられた構築物は、あまりにも必然的であり過ぎた。確かにギリギリの重量バランスでここまでの事が可能である様、実証を眺める経験は、どんな鑑賞者にとっても希有な体験ではある。しかしこの、アニアス・ワイルダーというアーティストの作品の醍醐味は、一人の人間の、見えないくらいに細く細く、これでもかというほどに張りつめた緊張の糸を、切れるか切れないかの狭間でなんとか紡ぎ続け、巨大な構造体として結実させる事にあるのではないだろうか。この事と、前述の理論の実証のごとき現れとは、鑑賞の体験として、相反する、相容れない事柄である。制作過程を収録した、小さな画面に映し出されるビデオ映像から、緊張の、真空の、片鱗をしかと見る事が出来ただけに、、まったく大きなお世話だが、、もったいないっ。

▼ Exploratorium | The museum of science, art and human perception
http://www.exploratorium.edu/seeing/about/seeing_gallery.html

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2007年6月29日 (金曜日)

高く延びた二つの鉄の

Serra 先日の遠足の目的の一つ、こ、れ、は、スゴかっタ!圧倒圧巻☆☆☆☆UCSF(University of California San Francisco)の中庭に立てられた二枚の超大な鉄の板っ。リチャード・セラ(b.1939)2006年の作品「Ballast」(訳→Yahoo!辞書)である。SFGate.com(参考)によれば、「サンフランシスコで生まれたセラ、唯一の地元において野外設置された作品」との事である。二枚の鉄板はそれぞれ、重力を突っぱねるように天井に隆起し、まるで首の筋がつった時のような、傾きを持っている。そしてと、に、か、く・・デカイっ。ここまで巨大な物体を、まるごとダイレクトに感じる機会が他にあるだろうか。もちろん私達の身の回りには、巨大な建築、そして山や木々など、たくさんの「巨魁なもの」が存在している事は、私だって知ってる、が、それらはたくさんの意味の構築物であり、それぞれにまつわる機能や観念が、「大きさの裏付け」をしているのに対し、セラの彫刻は・・ただ、そこに在る、それだけなのだ。そそり立つ裏表四つの表面には、それぞれ夕暮れ時の太陽の光が直接、或いは周囲の学校の校舎を反射して降り注いでいた。二つの間に立って仰ぎ見ると、距離を計る目安が見つからず、くらくらと目眩を感じた。斜めに突き刺ささり高く高く延びた直線は、この景色から重力を奪っていたような、そんな気がする。

Sssニューヨーク近代美術館(MOMAで大回顧展「 RICHARD SERRA Sculpture: Forty Years」が6月3日から9月10日(2007)まで開催されている。ワ〜、、行きて、、ぇ、けど、ムリか、、。




▲▼Online Exhibition: RICHARD SERRA Sculpture: Forty Years(MOMAウェブサイト内) http://www.moma.org/exhibitions/2007/serra/

▼Richard Serra at MoMA - Torqued Torus Inversion and Sequence
 

▼Installation of Richard Serra's sculptures at MoMA
 

 

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2007年6月10日 (日曜日)

大日本人だよ

Dnj 雑誌ブルータスの今発売している号(2007/6/15号)の特集「大松本論/一冊まるごと松本人志」を読みつつ電車に揺られて、ワーナー・マイカル・シネマズへ。松本人志第一回監督映画「大日本人を観た。まったくなんっつぅ映画をっっ!(笑)こんな映画が全国218館で上映されている事からまず面白い。「例えば子供を寝かしつける時に、桃太郎の話しをするとしますね、その時子供から「桃太郎の話しってどんな話?」と聞かれるのに似てると思うんです。「今から、するがな」ということです。」と、公式ホームページ“監督からのメッセージ”上で、松本本人が、自分でも何と名指す事の出来ない作品を、宣伝文句によって矮小化させたくない思いを語る姿勢はよくわかる。だ、か、ら、いちおう内容には触れずにおく。おそらく具体的な内容の前宣伝云々って事のみならず、個人的な印象記述であったとしても、「笑い」のようにセンシティヴな爆発物にとって、予備知識は、いともたやすく弊害になってしまいかねないが、が、しかし、この映画からは、というかこの「笑い」からは、どんどんネタバレさせたり、何回も繰り返して観る事で、面白さは倍増してゆくのではないか、そういうなんとも確信に近い予感、期待を抱かざるを得ない。実際、見ている最中から、数分前に起こった事柄がフラッシュバックするように何度も思い出され、真っ暗い会場の中、ブフォっと一人ウケてしまった。消えていかない。反芻反芻反芻反芻・・いやぁ笑った。ってま、あ、ダウンタウンのコント自体そういう感じだしね。でも、長尺ゆえだろうが、終わる前から反芻が始まるのは初めてかも。カンヌ国際映画祭とか、ほんとどうでもいい。
BRUTUS (ブルータス) 2007年 6/15号 [雑誌] ブルータスの特集では、芸能人やら演出家やらCMディレクターやら美術家やらやらが松本人志(b.1963)の仕事について語り倒しているが、過去のコントや漫才の説明の記述、それだけで「ごっつ」(フジテレビ:1991/12/8-1997/11/2)や「ガキ」(日本テレビほか:1989/10/3〜)を観ていたときの面白さが蘇って来て思わず笑ってしまった。写真付きで紹介されている、2003年に発売された松本人志プロデュースの食玩「世界の珍獣」も、出たときは、あっれ〜?外した〜??っとか思っていたが、久々見て「テナガガメ」にはやられた。「セノリブンチョウ」も欲しい。家で大掃除とかしてる最中に後ろからぶっつけられたい。しっかしやたらと松本人志を「芸術家」に仕立て上げたい空気にはちょっとなんだかな〜っと・・経済効果としては「お笑い」の方がおそらくあるとは思うが(或いはそのせいで)、「お笑い」が不当に貶められ、「アート」が不当に権威付けられているような空気は拭いきれない。讃えるのはいいけど(そういう雑誌だし)「アート」ってたんにジャンル名であって、「スゴいもの」の総称でも、「崇高なもの」の総称でもない。お笑いをアートの領域にまで昇華させているっ!とばかりに、過去の、或いは現行のアート作品と松本コントのデティールとの類似性を指摘する事が、松本人志の偉大さを保証するものではないし、文化人類学的にどうだっていうんならまだしも、で?なんやねん!っと突っ込みでも待っているのだろうか・・っていうかマウリツィオ・カテランなんかよりずっと松本人志の方が面白いでしょ!

▼「大日本人」公式サイト
http://www.dainipponjin.com

緊急企画 ダウンタウンは世界に通用するのか!?
http://www.youtube.com/watch?v=Mpb1xqx7New

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ブルータス(2007/6/15号)巻末「BRUT@STYLE」のページでは様々なブランド服を身に纏い、渋〜〜ぃポーズを決めた板尾創路(b.1963)の写真が掲載されている。ダウンタウンのコント未見の人にはさっぱり分からないだろうが、もー、居るだけでオカシイっ!

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2007年6月 9日 (土曜日)

宇宙から来た少女

Du_1 「マルレーネ・デュマス—ブロークン・ホワイト」展(東京都現代美術館)「マルレーネ・デュマス—Light and Dark 1987-2007」展(ギャラリー小柳)を観た。もういつだったか忘れてしまったが、何年も前、現在も展覧会を開催している銀座/ギャラリー小柳で、初めてデュマスの水彩画を観た時、死体を描く人だ、と、思った。今回は観ながらマイケル・ジャクソンを思い出した。
※「宇宙から来た少女」は現美出品作の題名の一つ

▼「マルレーネ・デュマス—ブロークン・ホワイト」東京都現代美術館:4/14-7/1/2007
http://dumas.jp/j_index.html

▼「マルレーネ・デュマス—Light and Dark 1987-2007」ギャラリー小柳:4/17-6/16/2007
http://www.gallerykoyanagi.com/
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追記:
ちなみに今、東京都現代美術館の常設展示では、新しくコレクションに加わった作品を中心に展示していて、韓国人アーティスト、スゥ・ドーホー(b.1962)の、2005年にメゾン・エルメス8階フォーラムで展示した作品、薄い布で作られた、中空に浮かぶ淡いグリーンの門が、包み込むような空間で出迎え、会田誠(b.1965)の「戦争画リターンズ」や、岡本太郎(1962-1996)の1968年にメキシコで描いた30メートルに及ぶ巨大壁画「明日の神話」など、いろいろ補填出来てお得感あり。

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2007年6月 3日 (日曜日)

神の愛のために

ダイヤ多数散らした頭蓋骨の作品展示、英アーティスト(CNN.co.jp:2007.06.02: 15:58)
http://www.cnn.co.jp/showbiz/CNN200706020012.html

今度はダイヤで覆った人の頭蓋骨=売値は120億円−英芸術家(時事.COM:2007/06/02-06:20)
http://www.jiji.com/jc/zc?key=%a5%c0%a5%df%a5%a2%a5%f3&k=200706/2007060200077

Hirst unveils £50m diamond skull (BBC NEWS:  1 June 2007, 13:08)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/6712015.stm

Damien Hirst unveils his jewels in the crown, a £50m diamond-studded skull (the Daily Mail: 22:13pm on 1st June 2007)
http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/news/news.html?in_article_id=459204&in_page_id=1766&ito=1490
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Hirstイギリスの美術家、 ダミアン・ハースト(b.1965)の新作。これはまたスゴいなぁ・・いやぁスゴい。オーパーツとして「スプリガン」(原作:たかしげ宙/漫画:皆川亮二のマンガ)にでも出て来てそうな・・。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば・・「オーパーツ (OOPARTS) とは、「場違いな工芸品」という意味。それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品を指し、英語の Out Of Place Artifacts の頭文字をとったものである。日本語では「時代錯誤遺物」と意訳されることもある。」さてここで「場違いな工芸品」なのは・・、「時代錯誤遺物」なのは・・。右の写真は時事ドットコムより。

I Want To Spend The Rest Of My Life Everywhere, With Everyone, One To One, Always, Forever, Now I Want To Spend The Rest Of My Life Everywhere, With Everyone, One To One, Always, Forever, Now

著者:Damien Hirst
販売元:Booth-Clibborn Editions
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ダミアン・ハースト(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88

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2007年6月 2日 (土曜日)

昔々あるところに魚駐車というプロジェクトがあったらしい

上野、スカイ・ザ・バスハウスにて土屋信子個展「昔々あるところに魚駐車というプロジェクトがありました」を(ちょっと前だけど・・)観た。6月30日(土)まで。
Tututu ロンドン在住で、ベネチア・ビエンナーレとかにも出してる国際的に活躍中のアーティスト、らしい。日常に根ざした素材と「日常的な」という形容から一歩出たような素材を様々に組み合わせ、細かな一つ一つの作品は形作られている。「日常的な」という形容から一歩出た素材、とはつまり普段生活をしていて使いそうで使わないけど、電気屋とか画材店に赴けば容易に手に入る事の予想出来そうな、ちょっと太くて長い針金や、模型用のグリーンの芝のようなもの、工作素材、あーなんかなんかの業者さんが使ってそ〜ってものである。それらが樹脂でコーティングされたり、綿毛を付着させられたり、溶接されたり、接着されたりして、配置された個々の作品からは、答えを聞いてもおそらく理解出来ないだろう用途を持っていそうな、すぐそこにあるのに近寄りがたい、ただならぬ雰囲気が漂っている。或いは誰か(それは人ではないかも知れない)との会話そのものが所有する、ある一つの側面が、たまたま、こちらの目に見える形でそこにあるような、そんな感じ。
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SCAI THE BATHHOUSE
土屋信子展「昔々あるところに、魚駐車というプロジェクトがありました」 2007/5/18-6/30
http://www.scaithebathhouse.com/ja/exhibition/data/_a_parking_fish_20070518/

fogless: exhibitions: インタビュー: 土屋信子
http://www.fogless.net/artreview/030925_ar_nt/tsuchiyanobuko.htm

Anthony Reynolds Gallery(所属ギャラリー)
http://www.anthonyreynolds.com

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少女たちの戦いの物語

Darger 原美術館「ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語ー夢の楽園」展を観た。ヘンリー・ダーガー(1892-1973)。いろんな雑誌で何度も既に読んだり見たりしていて、発表もせず、するつもりもなく、1万5145ページ(15巻)の小説と膨大な挿絵によって、少女幼女の惨殺や素っ裸ばかりを描いて描き続けて数十年っというのは、それだけでなんだかスゴそーだー、とは、ず〜っと思っていたけど、なんとなく見そびれていてて、実物の体験は初めて。この展覧会は、小説の挿絵とされる絵画を中心に、ダーガーの成した「何か」を紹介するもの。しかし死後になってアパートを管理する大家に発見されたという、発表する事が前提にない、プライヴェートにこそこそこそこそこそこそこそこそ作られた小説ないしその挿絵が、どんだけスゴーッて思ったからって、大々的に公開して商売にまでしちゃうってのは〜な、ん、て、思いつつ、膨大な時間、膨大な労力、膨大な分量を注ぎ込まれた、ほとんどダーガーの人生の化身のような物語の片鱗に触れて、こいつは確かに、たくっさんのなんかのヒントを隠し持ってる、な、と、思った(思っていろいろ書き出したけど、いろいろ過ぎてまとまらないので、ま、とりあえずこれくらいで)。

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原美術館「ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語ー夢の楽園」2007/4/14-7/16
http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html

American Folk Art Museum
申請して許可が下りれば、ここで1万5145ページの『非現実の王国で』を読む事が出来る、らしい。
http://www.folkartmuseum.org/default.asp?id=878

Andrew Edlin Gallery
http://www.edlingallery.com/dynamic/artist_artwork.asp?ArtistID=4

ヘンリー・ダーガー:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

著者:ジョン・M. マグレガー
販売元:作品社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2007年5月28日 (月曜日)

アートで候?

Uenoooooo上野の森美術館にて「アートで候:会田誠×山口晃」展を観た。久しぶりに会田作品を観て、女子高生描写とかこんなにエロくないもんだったっけ?さらさらし過ぎっとか思ったけど、うん、まぁ、はぃ、いゃ、うん、その分コンセプトは全体に明快、に、見えて、面白かったし、観ている間、何人もの女の子やおばさんやギャラリーの受付っぽい女の子や人を上から見てるっぽい歩き方のおばさんや女性達が、クスクスと笑って作品を観ているのに、へーっと思った。岡崎乾二郎風(!)絵画タイトルに「美術に限っていえば、浅田彰は下らないものを誉めそやし、大切なものを貶め、日本の美術界をさんざん停滞させた責任を、いつ、どのようなかたちで取るのだろうか。」(展示作品より:以下、宮村周子氏ブログ参照)だって(笑)
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会田誠氏の作品を観て、自分の作品をもっともっと地味〜〜にしなくては!という使命感を覚えました。

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濃いい!アートのデトックスと再生について。「アートで候 会田誠・山口晃」展@上野の森美術館
「宮村周子の展覧会リコメン:すご早!アート2.0」(2007年05月23日)
http://sugohaya.lammfromm.jp/2007/05/post_1.html

「アートで候:会田誠×山口晃」上野の森美術館:2007年5月20日(日)〜6月19日(火)
http://www.ueno-mori.org/special/aida_yamaguchi/

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2007年5月20日 (日曜日)

魔法が解ける瞬間は突然やってくる

ジダン 神が愛した男 DVD ジダン 神が愛した男

販売元:アミューズソフトエンタテインメント
発売日:2006/11/24
Amazon.co.jpで詳細を確認する

「ジダン 神が愛した男」(2006/7/15公開)を観た。サッカー史上最も偉大な選手の一人と評価され、2006年7月9日のFIFAワールドカップ・ドイツ大会決勝(対イタリア戦)を最後に引退した、フランスの英雄、ジネディーヌ・ジダン(b.1972)。この映画は、タイトル通りジダンの映画である。ジダン1人を、一試合、17台のカメラで追う。ただそれだけだ、と、言っていい。試合は2005年4月25日、レアル・マドリードVSビジャレアル戦。原題は「 ZADANE un Portrait du 21e Siecle」、つまり「ジダン:21世紀の一つの肖像」。

1)この映画の鑑賞者は、おのずと17台のカメラという主観によって、試合の観客やチームメイトよりも、ずっとずっと間近にジダンを感じることになる。ジダンの息づかいや、スパイクが芝を蹴り上げ、試合中、その瞬間瞬間に、フィールド上のそこ以外ない居場所を寸分違わず獲得してゆく、その動きを、音を、ジダンを、17台のカメラと共に分かち合うのだ。時折、劇中に流れるスコットランド・グラスゴーのバンド「モグワイ」の音楽や、様々に交錯する歓声、テロップのジダンの言葉も、どこか、遠くで鳴る遮断機の警報のように現実味がなく、その現実味のなさが、ますます、ジダンという現場を強調し、鑑賞者をその現場に引きずり込む。

2)試合の内容は、まったくと言ってもいいくらいわからない。テレビ放映のそれのような、俯瞰した映像も登場するが、試合の成り行きを説明出来るような代物ではなく、後半戦でジダンのアシストにより点が入るシーン(実際の試合の観客は盛り上がる)でさえ、その瞬間は「え?ジダンが入れたの?違うの?」ってくらい。当のジダンも淡々と、息を荒くして自陣のフィールドに戻ってゆくだけだ。しかし不思議に、サッカー鑑賞に独特の、常に下っ腹に軽く力を込め、鼻で静かに呼吸する事を強いられ見守らざるを得ない、張りつめた空気は依然として顕在、、いや、それらはむしろ濃厚でさえある。

3)終盤、「魔法が解ける瞬間は突然やってくる」というジダンの言葉が字幕としてインサートされ、そしてその後、ジダンは相手選手のプレイに抗議し、エキサイトし過ぎた事でレッドカード〜一発退場。ジダンのこの試合の幕引きであり、この映画の幕引きである。このラストシーンは、ジダンの引退試合となった2006年ワールドカップ決勝の「頭突き一発退場」という、伝説のサッカープレイヤーの衝撃の幕引きと、重ね見られているが、しかし、私には、この退場シーンではなく、そのもう少し前に、ジダンが劇中ではじめて見せた、それまでの心理的無風状態から鑑賞者、或いはジダン自身を開放するかのような、柔らかな「笑顔」こそ、「魔法が解ける瞬間」であったように思える。

イッタイワタシハナニヲミタ?

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「ジダン:神が愛した男 / ZIDANE :Un portrait du 21e siecle」公式HP
http://www.zidane.jp/
ジネディーヌ・ジダン(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%80%E3%83%B3

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2007年5月17日 (木曜日)

感覚の新鮮さ

知人アーティストのウェブサイトから、損保ジャパン東郷青児美術館のサイトにたまたま偶然訪れた。したら、トップページに、2006年6月7日のニュースリリースとして「第25回安田火災東郷青児美術館大賞授賞の取消しについて」のPDFへのリンクが貼られていたので、もう古い話題なのかも知れないけど、それについて。

▼損保ジャパン東郷青児美術館ウェブサイト
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/

贋作疑惑でいろいろ取り消しになった画家・和田義彦氏が、2002年3月20日に受賞した賞の取り消しの「お知らせ」である。そっかー、あの騒ぎからもうずいぶん経つのか〜っと、そのPDFを読むと、「取消理由」は(以下)との事(財団法人 損保ジャパン美術財団:News Releaseより引用)。

 本賞は、1977年に創設され、画業に優れ、優秀な絵画を発表した作家1名に授与してまいりました。
 和田義彦氏の授賞作品「想(そう)」は、アルベルト・スーギ氏の作品「交叉点のバー」と極めて類似しており、本賞審査基準に照らし合わせて、「感覚の新鮮さ」「技法の確かさ」「独自の世界の形成」の観点から逸脱していると判断いたしました。
 

うん?画家のモラルを問題視するのはわかるけど、絵画の発する「感覚の新鮮さ」とか、「技法の確かさ」って、パクったから表現出来たり、技法が確かになったりするもの??盗作の対象になったもの、類似していると判断した要素っていうのはつまり多分きっと、「モチーフの選定」「構図」「色彩」あとはせいぜい「筆致の扱い方」っくらいのものなんだろう。そういう要素をパクった和田氏が「独自の世界の形成」に対して不誠実きわまりなかったというのは、わからいではない。しかし絵画において「感覚の新鮮さ」「技法の確かさ」の有無というものは、当の絵画そのものに鑑賞者が対峙して初めて判断し得るものであり、そもそも盗作云々と関係のあるものなのだろうか。名画の模写をしたってそうそうオリジナルに匹敵するようなスゴい作品が出来上がるわけではない。それともそうした諸要素をパクっただけで「感覚の新鮮さ」 が立ち現れ、「技法の確かさ」を獲得出来るような完成された「方法」或いは「様式」をアルベルト・スーギという画家が構築していた、構築しているという事 なのだろうか。

アルベルト・スーギという画家の作品を私は実際に観た事がない、せいぜいテレビの報道や、インターネットで眺めただけであるし、それは和田義彦という国画会なる団体に所属していた画家の作品にしても同じ事である。たぶんこの報道で画家のモラルに憤ったり、日本の美術に対する評価システムに対して疑問を持ったりした多くの人にとっても同じ事だろう。それは問題になった「文化庁芸術選奨」の選考においても同様であった事は、去年(2006年)8月号の「美術手帖」にも書いてある。(インディペンデント・キュレイターである東屋隆司氏は執筆“「盗作事件が露呈したもの/「美術」は鎖国されたままなのか”で、2006年6月6日の読売新聞:記事“前田恭二、高野清見「和田氏『盗作』芸術選奨取り消し 借用の25年 選考材料、展覧会の図録だけ”から引用し判断材料は展覧会カタログしかなかった事を取り上げている。)

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2007年5月 8日 (火曜日)

Spencer Tunick » 1万8000の裸体

メキシコで1万8000人が集団ヌード撮影 (ロイター:2007年05月06日)
http://today.reuters.co.jp/news/articlenews.aspx?type=entertainmentNews&storyID=2007-05-07T180217Z_01_NOOTR_RTRJONC_0_JAPAN-258554-1.xml

撮影にボーイフレンドと一緒に参加した30歳の女性大学教授は「もはや我々の社会がそれほど保守的でないことをイベントは証明した。われわれはタブーから自分自身を解き放ちつつある」と語った。

1万8千人の集団ヌードを撮影=米国の写真家がメキシコで (時事通信社:2007年05月07日12時05分)
http://www.ocn.ne.jp/news/data/20070507/a070507014850.oj0hjfab.html

大学生のフアン・ラゴスさんは、「これは芸術であり、政治的な声明であり、同時に我々の体を使った愛の表現だ」と話した。

St スゴい!!久しぶりにこの“スペンサー・チューニック”というアーティストの名前を聞いたが、感嘆感嘆。集団ヌード撮影の世界記録だという裸体の大群。そのあまりの人数の多さに、一人一人は細かなピンクの、或いは褐色の、様々な色の点に抽象化され、集合はグレーの風景の中で、赤みを帯びたエネルギーの固まりとして浮かび上がっている。そして、これだけの大人数によって、モデル一人一人の「個」は抽象化されつつも、消失してしまうどころか、むしろ、裸体であることにより、ますますその固有性を強めているかのようだ◎(上の写真はロイター.co.jpより)
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Spencer Tunick(I-20 Gallery ホームページ)
http://www.i-20.com/artist.php?artist_id=19&page=images&work_id=764
Spencer Tunick(HALES GALLERY ホームページ)
http://www.halesgallery.com/tunick_overview.php
スペンサー・チュニック(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF
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Spencer Tunick Website
http://www.spencertunick.com
このチューニック氏のウェブサイトからインスタレーションの一部になれるっ!?

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2007年4月 6日 (金曜日)

ブライアン・アルフレッド "Global Warning"

BRIAN ALFRED "Global Warning" (2007.3.23-4.28)
SCAI THE BATHHOUSE
http://www.scaithebathhouse.com/ja/exhibition/data/_global_warning_2007323428/

白々しいまでの「私達が現在直面している問題」を示唆するイメージが、スナップ写真のような構図を用いて、アクリル絵の具で描き出されるブライアン・アルフレッド氏のペインティング。連想される9.11などの危機的状況と言わざるを得ない国際情勢や環境問題、と、いう私達の問題は、あくまで私達の問題でしかなく、私の問題ではなかったという事を自覚させる力を持つ。イメージを形作る、切り貼りされたがごときメリハリの利いたエッジに区切られた色面は、いずれの作品も、どこかアメリカ同時多発テロ事件のあの早朝の雲一つない真っ青な空を私に思い出させた。

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2007年4月 4日 (水曜日)

第一回 田中功起ショー

第一回 田中功起ショー「いままでのこと、さいきんのこと、これからのこと」(2007.3.16-30)
上野の森美術館ギャラリー
http://www.ueno-mori.org/tenji/annex/20070316/index.html

私はこれまで、田中功起氏の作品を特別追って来たわけではないし、おそらく観たのはほんの一部の展覧会に過ぎないだろう。しかし、まさにいま、旬の人気作家だけあって、そんな私でも田中作品の体験は一度や二度ではない。その私の経験上という前提付きではあるが、今回のVOCA展と同時開催の上野の森美術館・別館ギャラリーでの「これまでを振り返る」主旨の展覧会は、田中作品最高のインスタレーションと言わせる説得力を持っていた。

ホームセンターで購入して来たようなDIY用品、机やパイプ椅子などの、散らかし系インスタレーションの中に複数の映像作品をループさせた複数のテレビが配置されているのは、水戸芸術館での「マイクロポップの時代:夏への扉」展出品作とほぼ同様であり、この作家の常套句でもある。一つ一つのビデオは、日常的な物を主人公として、その存在の在り方や働き、物同士の現象の仕方そのものを、次々に映し出している。まさに1970年代に花を咲かせたモノ派のごとき表現を繰り返すというものである。私の解釈したモノ派とは、見知った現象を取り出して「同語反復するだけ」の表現であり、実際作品を前にしても、何の驚きも発見も見出せたためしがなかった。同様に、これまで田中功起氏の映像作品を観ても、モニターの中で次々に起こるような日常の現象が面白い事は、少なくとも私にとっては知ってる事であった。それ故にこれまでの田中氏のモニターに映るそれら現象は、散らかされたインスタレーションと共に、既知の面白さをわざわざ啓蒙するかのごとき作品と、私には見えていたし、それ以上の示唆があるとは到底思えなかった。しかしながら、今回の上野の森美術館でのインスタレーションは、その考えを一から改めなくてはならない必要を私に迫って来たように思う。

複数のモニターが何故必要だったのか。複数のモニターに映し出される映像の関係性。散らかされたインスタレーションの意味。

▼美術評論家:峯村敏明氏によるテキスト【「モノ派」とは何であったか】
(鎌倉画廊ホームページより)
http://www.kamakura-g.com/KG-html/monoha-page/monoha-what.htm
▼Dialogue:美術館建築研究[5]アートの現場から[3]田中功起+青木淳
http://tenplusone.inax.co.jp/dialogue/dialogue005/dialogue5_1.html

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2007年4月 1日 (日曜日)

遠藤利克展「Trieb-神殿 II」

もう少し前の事になるが、秋山画廊遠藤利克展「Trieb-神殿 II」(2007.3.5-31)を観た。会場に入ると洗濯機のモーター音のようなウンウンとうなる音が響き渡っている。白い壁を一周して鉛のパイプが走っており、一端が会場右奥のドアを突き抜け、その奥に続いていて、その先は覗く事は出来ないが、どうやらその奥にモーターがあり、そこからパイプに水を供給しているという事らしかった。展示空間中央には、やはり鉛の1×1.5×1メートル強ほどの箱状の物体が置かれている。モーターの音は、日常空間における洗濯機ほどではないにしろ、その性質として、不快な感情を抱かせる効果を発していたが、それ以外に表現と言えるような物は、私には見つける事が出来なかった。それぞれのオブジェは造形的に面白いと呼べる物ではなかったし、かと言ってこちらの現実に存在するものでも、その要素の気配すらなく、何も連想させず、鑑賞する手だては完全に喪失されていた。同時展示されている、この展覧会のエスキースと思われる二点のドローイングを観ても何もわからない。この作品を表現として扱う術を私は知らない。

この展覧会について、毎日新聞記者三田晴夫氏は「よみがえった人類史の古層に触れるかのような、荘厳さと畏怖(いふ)の念を募らせてやまない光景」と評しているが、私には何の事やらさっぱりわからない。

毎日新聞(2007年3月27日/東京夕刊)記事
▼「美術:内海聖史展/遠藤利克展 夢幻の場を導く色彩と水」
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/news/20070327dde014040029000c.html

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VOCA展2007

上野の森美術館にて、VOCA展2007「現代美術の展望-新しい平面の作家たち」(2007.3.15-30)を観た。この平面作品を制作する若手アーティストの登竜門とも呼べるVOCA展を、私が訪れたのは、例年のこの時期は日本に居なかったり、忙しかったりで、かなり久しぶり。しかし現在も、既に雑誌などのメディアにちょこちょこ取り上げられ、見知っている作家の作品を少なからず見る事が出来るのは、一つのVOCA展に訪れる利点だ。全体的に、以前あったような重厚な、というか重い雰囲気の作品がなくなっている印象を持った。世代が確実に入れ替わっているという事だろうか。いくつか気になった作品があったが、ここでは二点。

田口和奈氏の「その悲しい知らせ」と題された写真作品は、何か、何処かで見た事のあるような少女のポートレイトが黒いぼんやりとした背景に浮かんでいる。VOCA展カタログ内推薦者のテキストによると、田中氏の作品は、様々なメディアから切り取って来た人物のパーツ(の写真)を組み合わせたモンタージュが、一旦アクリル絵の具で描き起こされ、さらに写真に撮られ、作品とされるという。おそらくこのサイズ、テクスチュアでなくてはならない何か、というのがあるのだろうが、その逸話を知ってしまうや否や、カタログの写真を見ているだけでも、細部にわたって一人の人間(作者)の人体に対しての、強迫観念的なフェティシズム(?)が反映されているようで、とげとげした感情が沸き上がって来る。面白い。

黒嶋亮子
氏の「光」はワイヤーで吊るされた、薄く白いカーテンに描かれた、桜をイメージさせる、華やかなドローイング作品である。設置状況としては、グループ展という事もあってか、けっしてこの作品にとってベストの作品サイズ、場所、照明であったとは思えなかった。というか、もっと良い環境を、僭越ながら用意したい衝動に駆られたが、しかしともあれ、呼吸をするように、或いはきわめて個人的な日記を淡々と日々つけるように、日常化され、反復された描くという行為(ドローイング)が、桜というイメージに連結し、展示され、静止しているはずのカーテンを、そっと揺らしていたのが印象的であった。
...........................................................................................
この「桜」に触発され、今日近所の公園の桜並木をビデオカメラで撮影し、映像作品を制作した。
Sakura

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2007年3月29日 (木曜日)

ザイムでフェスタ2007

横浜・みなとみらい線日本大通り駅から徒歩五分にあるZAIMにて開催されている「ザイムでフェスタ2007」に行って来た。ホームページによれば、ZAIMとは、

■ 昨年9月28日から12月18日まで山下埠頭で開催された現代美術の国際展「横浜トリエンナーレ2005」の準備期間から終了まで、市民サポーターやアーティストの活動と交流の場として活用された「旧関東財務局」及び「旧労働基準局」。
■ 中区日本大通に面するアクセスの良いこの二つの歴史的建造物を、横浜市では次の横浜トリエンナーレ第3回展に向けて、市民サポーターやアートNPOの活動をさらに盛り上げ、ネットワークを広げるための拠点施設として、開放していくことを決めました。(ザイム・プロジェクト)
■ 同時に、文化・芸術による「創造都市」作りに取り組む横浜市では、この周辺を多くの若いアーティストやクリエーターが集う「創造界隈」と位置づけており、レジデンス創作活動の拠点としても提供していきます。
■ 「市民協働」「創造性」「同時代性」「歴史的建造物」これらの相互作用によって、現代美術にとどまらない様々なジャンルで新たな芸術的価値を生み出し、横浜から発信していく。
(ZAIMホームページより抜粋)

という所らしい。私にはいまいち何がやりたい所なのかピンと来ないのだが、この「ザイムでフェスタ2007」は高校の文化祭のような雰囲気で、この建物の部屋を間借りしている人達なのか、その友達なのか、皆なにか楽しそうだった。

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マイクロポップ

先日(2007年3月24日)の「マイクロポップの時代:夏への扉」展についてのエントリの最後を、私はこう結んだ。

私はこの展覧会を訪れる以前に、水戸芸術館のホームページで、企画者・松井みどり氏による展覧会コンセプト「マイクロポップ宣言」を読んでいた。私はこの「マイクロポップ」という概念を、ほとんどアウトサイダーのアートのそれ、或いは子供や未成年の作品として、フォービックなものとして、現代の一部のアーティスト達を括ってしまおうという意図をその時、読んでしまっていたが、どうやらちょっと違うらしい。

しかし、それはどうやらだいぶ違うらしいのは、同展カタログや美術手帖(2007年4月号)の特集「夏への扉:マイクロポップの時代」に親切に説明されていた。そもそもマイクロポップというのは「要は」などと言って括ってしまってはいけないものであったのだ。と、いうより、むしろそうしたカッコに対立する立場であったようだ。例えば「わからない絵」を指して「ピカソっぽい」というように、わからない物をわからない箱にぶち込んで淘汰しようという姿勢、「天才」だとか「異端」だとか、「障害者」「子供」「未成年」だとかっていう言葉によって、接触した理解の範疇に収まらないアートをカッコに括り一義的なものとして持ち上げる姿勢、或いは「オタク」や「ジャポニスム」といった戦略的意図を発露として生まれて来た「アート」への抵抗として、掲げられた言葉なのだ。

美術手帖 2007年 04月号 [雑誌] 美術手帖 2007年 04月号 [雑誌]

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ここでアートは個人の感性を発露としている、と、いう事がまず、確認されているように思う。それが個々人にとって脅迫的な現実からの逃避であろうがなかろうが、個人の日常に芽生えた希望を切り口に、世界の認識の仕方を変革させようとする姿勢を「マイクロポップ」という言葉は指しているのではないだろうか。クオリア(何らかの感覚刺激を受け取った時に生ずる意識体験の内容・どこまでいっても他人と共有する事の出来ないであろう主観的体験)を掛け替えのないものと尊重し、さらに各々の創作の過程で、社会の中で生きる為に自分で知らず知らず身に付けて来た他人の価値観を追い出してゆこうとするアーティストは強い。経済的、社会的、精神的に何かへ依存することから独立して、自由な存在となる事に貪欲なのだ。

私は、高校生当時、世界の中での言い知れぬ自分の居心地の悪さ、発する言葉、感じる感情、全てが他人の物、借り物であるような感覚から脱却して、自由になりたいという衝動から、アーティストになりたいと思い、制作活動をスタートさせた。アートには自由があると思ったのだ。アーティストは唯一の自分の言葉で話し、何ものをもしっかりと感じる事の出来る確かな身体を持っていると思ったのだ。であるが故に、私の創作活動とは、自由人になる為のステップであり、作品は自由人になる為のインストラクションとして機能する事を目指して来たし、これからも目指す。

アートという言葉を、「既に在るもの」として考えるのではなく、或いは「既に在るアート」から照射されたものとしてしか存在し得ないものとして捉えるのではなく、これから生まれて来る何かについての言葉、私達がこれから意味を付与させるもの、未遂の存在として提起するかに見える「マイクロポップ」という言葉を、私は歓迎したいと思う。

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書きつつ、2006年1月から6月に放映されたアニメ『Fate/stay night』(フェイト/ステイナイト)登場人物アーチャーの台詞を思い出した。

「おまえは戦う者ではなく、生み出す者に過ぎん。余計な事は考えるな。お前に出来る事は一つ。その一つを極めてみろ。忘れるな。イメージするものは常に最強の自分だ。外敵などいらぬ。おまえにとって戦う相手とは、自身のイメージに他ならない。」
 

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2007年3月24日 (土曜日)

マイクロポップの時代:夏への扉

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私はアートを観る時に、その当の作品を観た時に沸き上がる何かしらの感情と同軸に、メタ的な感情とも言うべき、自身の感情に対する猜疑心のようなものを抱く。こういうことは、私自身がアーティストである事が多く起因しているとは思うが、どんなアーティストでもそうかと言うと、私にはわからない。

私の、出会った事物から得た印象・感動を言語化する能力などたかが知れている。しかし、常に言語化しようという意思を持っているし、言語化する事で、自分の立ち位置を模索する為のツールとして、体験を一つ一つ大切に身の一部にしてゆこうと考えている。だから私の言語化という作業が、自/他とのコミュニケーション・ツールとして、どこまで的確であるかという事はともかくとしたとしても、私は言語化する事を身の一部として、これまでやって来たし、これからもやっていくだろう。

私が、言語を誰か(第三者)に伝える為だけに限って使用しているかというと、そうではないが、対象を把握しようとする場合には多く次の事が言える。私にとっての対象の言語化は、その言語が的確であるという状況、つまり相手に間違いなく伝わる状況からの誤差が少ないほど、「よく知っている事」となり、「当たり前だ」と自分が考え、感じている事であればあるほど、言語化は的確なる状況に近くなる。それ故に、私が言語化出来ない、或いは的確という状況からの距離があまりにも遠いと感じる状況は、未知なるものとの出会いを私に知らせているという事と(ほぼ)同義である。これを、私は自分にとっての一つのチャンスと考えるようにしている。

そこでは、それまでの私ならざる者の介入を感じる事が出来る。いや、私が私ならざる者になっていく事を感じる事が出来る。私ならざる者は私にとって閉塞状況であったものに対して如何なる打開策を提示してくれるのか、私ならざる者は私が限定していた世界を如何に認識させ、ぶっこわし、どんな魅力的な世界へ導こうとしているのか。私はその動向にただ、しっかりと、耳を澄ます事に意識を集中させる。それ以外に何も出来ないし、しても仕方がないようにも思う。

そういった状況は、世の中には私の知らない感覚を抱かせるものなど、無数にあるのではないかと、私に思わせる。実際そうなのだろうけれど、そういう事は知識として、自分の日常の外の事として、理解していても、実感出来る事、自分の生きる問題として感じる事の出来る事というのは、そう、たくさん、ない。これまで居る事の出来た世界はもう、存在しない、そういう状況だ。

私の脳は同時に今現在の自分が何故、対象の印象を言語化出来ないのか、つまり感動しているのか、というメタ的な感情を発動させる。それ故、思考の拠り所を失ったような、どこかまったく知らない町に、ポンと目が覚めたら放り捨てられていたような混乱と空白が、私の全身を不安に包む。しかしそれとて、感じている自分に確固としたアイデンティティが喪失されている為、不安が不安として成立していなかったりもするのだ。

先日観た展覧会「マイクロポップの時代:夏への扉」展でのいくつかの作品は、私の日常を白く濁らせ、私はまだ着地点を見出せずにいる。

泉太郎
「キュロス洞」という7分36秒の映像作品で、作者・泉氏は、テレビ画面に次々と映る芸能人やキャスター、料理番組のボールに、マジックで落書きをし続ける。消しては描くその一心不乱の作者の行為は次第に、マジックの消し残り、消しきれなかった部分の汚れの存在を露にしてゆく。それは時間を追うにつれ、画面を覆い尽くす程の、刺々しい汚物のような胸くそ悪い印象を発散するようになる。作者の衝動的なこのドローイングの行為で立ち現れて来た汚れ、いわば「倍音」のように滲み浮かぶそれとは一体何なのだろう。

K.K.
K.K.氏の作品は「拡散型インスタレーション」という、会期が終了に近づくにつれて、インスタレーションを構成する要素が増加し、変化していくという形態を持ったものだった。制作の素材やゴミなどの散乱するその部屋では、無意識の作者の興味から生じる複数のコンセプトが一つのインスタレーションの中で奇声を発しているかのように同居している。おそらく全てを把握する事は出来なかっただろう。

中央奥ほどに設置されるテレビには、モザイクで顔を隠された作者が本人の父親に「あーーーと何秒言えるかやってみて欲しい」と頼み、自身が先に「あーーーーー」と行ない、さらに父親が「あーーーーーー」と声を出す。この時テレビの中で作者K.K.が着ているのは、2003年に一躍彼の名を轟かせた映画「ワラッテイイトモ、」の劇中、公園に置かれたテレビを作者がハンマーで壊す場面で着用された衣服と同じ物である。壁に設置された複数のヘッドホンステレオを一本のテープが渡り、複数のスピーカーから、やはり、父親の「あーーーーーー」と作者の「あーーーーーーー」が流れ、ループしている。それは複数のヘッドホンステレオ(とそれぞれにそれぞれ用のスピーカー)が設置されている為、ある時は作者の、ある時は父親の声が二重に、ある時は二人の声が重なって、さらにそれらにテレビから流れる声が重なり、異様な空間が演出され、どこか崇高ですらある。壁には多量の父親からの手紙。それらはK.K.に向けられている物である事は確かなのだろう。しかし、どこか架空の子供に宛てられたように具体性に欠けている。そして部屋を暗くし、レーザーの光によって、地球におけるその部屋という一点での、その鑑賞時の地球の自転のスピードを目視する事が出来る。人間は静止していると思っていても実はものすごいスピードで移動しているという事を体感する事が出来る。

半田真規
デニーズの看板のような物体(しかしロゴはない)が白々と光り、パーティ会場のように設置された複数の丸テーブルには白いテーブルクロスが掛けられ、模造ケーキや幾何形態、建築資材のカタログ等の資料で作られたミニチュアの住宅・建築、様々なものが乗せられ、佇んでいる。半分枯れた竜舌蘭の巨大な鉢が搬入出用の台車に乗せられ、それはまるで枯れ果てるのを待っているかのようである。

そのように、巨大な展示会場に、実に様々な物が設置されているわけだが、それらはむしろ私に、そうした物体に切り取られた余白の美術館の青白い空間の、まるで酸素さえも失われた、出来の悪いプラスチックのコップように嘘くさい、嫌な味を想い起こさせる事となった。それぞれの設置された物体に意味があるのかないのか、それがそれでなくてはいけない理由というものが一個も見つからないのにも関わらず、かと言ってそれがそれではいけない理由というのも見つからず、ただ、そこには白い空間が空いていた。

私はこの展覧会を訪れる以前に、水戸芸術館のホームページで、企画者・松井みどり氏による展覧会コンセプト「マイクロポップ宣言」を読んでいた。私はこの「マイクロポップ」という概念を、ほとんどアウトサイダーのアートのそれ、或いは子供や未成年の作品として、フォービックなものとして、現代の一部のアーティスト達を括ってしまおうという意図をその時、読んでしまっていたが、どうやらちょっと違うらしい。

夏への扉:マイクロポップの時代
2007年2月3日(土)〜 5月6日(日)
水戸芸術館

http://www.arttowermito.or.jp/natsutobira/natsutobiraj.html

Book マイクロポップの時代:夏への扉

著者:松井 みどり
販売元:パルコ
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アート:“芸術”が終わった後の“アート” アート:“芸術”が終わった後の“アート”

著者:松井 みどり
販売元:朝日出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2007年3月22日 (木曜日)

レディ・メイド

脳科学者・茂木健一郎氏のブログと同者のココログのインタビューで「レディ・メイド作品の募集」をしている。

Fountain
《泉》Marcel Duchamp

「レディ・メイド」とは、英語で「既製品」の意味である。言わずと知れているが、アートにおいてそれは、マルセル・デュシャンが《泉》(便器を作品として提示)などの、通常別の文脈で捉えられ、機能しているものを、アートとして機能させた(させようとした)作品に対して名付けた言葉としてある。このデュシャンの「レディ・メイド」は、アート鑑賞、及び人間の視覚が、一人一人の観念に依拠した存在である事を、学生当時の私に教えた。

デュシャンは「芸術家が使用する絵の具のチューブは製品であり既製品であるのだから、世界中の全ての油絵は〈手を加えたレディメイド〉であり、アサンブラージュの作品だと結論づけなくてはならない。(マルセル・デュシャン全著作/北川研二訳)と語っている。ここから私が発想したのは、と、するならば、画家・鑑賞者双方、個人個人の、「油絵の具」に対して注がれる「視線」もまた既製品と呼ぶ事が可能なのではないかという事だ。

茂木氏が研究し、広めつつある「クオリア」とは、何らかの感覚刺激を受け取った時に生ずる意識体験の内容の事である(参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)つまり、たとえばあなたが見た「い林檎」の「」を他の人がまったく同じように「赤い」という風に見ているとは、多分永遠にわからない。いくら言葉でお互いにこの「赤い林檎」は「※※※※という風に赤い林檎」だと了解し合ってみた所で同じ事である。その使っている言葉自体、同じ言葉を同じ言葉として認識しているとは限らない、同じ言葉の指し示す感覚を同じ感覚として認識しているとは確かめ様がないからだ。

人間は、このどこまでいっても他人と共有する事の出来ないであろう主観的体験、つまりクオリアを、生きて来た時間の量だけ体験している。この世にたった一人の自分だけのたくさんのクオリアによって学習した事や、生み出した衝動がいつも個々の歴史の一歩を作って来たのだ。世界には65億7千万以上の個人がいる。つまり65億7千万通りのクオリアが、この瞬間にも体験されていると考える事が出来る。そして、今、この瞬間という「切っ先のクオリア」を体験するのは、過去の無数のクオリア体験によって培われた個である。

私がデュシャンから発想した事というのは、65億7千万の個人は、「切っ先のクオリア」を体験する直前までの過去の無数のクオリアによって培われ、常に「切っ先のクオリア」によって生まれ変わる「変動型既製品」であると言えるのではないかという事だった。

今現在体験されているクオリアの数
《世界の人口》

65億7千万の個人は、65億7千万の「変動型既製品」であり、当然それぞれの仕方で無数の非・自分と接触し、「切っ先のクオリア」体験をする。「世界中の全ての油絵は〈手を加えたレディメイド〉であり、アサンブラージュの作品」であるとするならば、この私達の暮らす人間社会もまた、「変動型アサンブラージュ」であり、一人の人間と同じく「変動型既製品」としてクオリアを体験していく存在と言えるのではないだろうか。

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2007年3月17日 (土曜日)

3/17

東京国立近代美術館「リアルのためのフィクション」展、ギャラリー小柳「小川百合」展、ヒノギャラリー「山本糾/QUICKSILVER」展、資生堂ギャラリー「内海聖史/色彩に入る」展を観る。

「リアルのためのフィクション」(2007.3.10-5.27) 東京国立近代美術館
東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館のコレクションを中心とした、やなぎみわ塩田千春イケムラレイコソフィ・カルの四人の女性アーティストの1990年代の作品を紹介する展覧会。いずれの作家も、この展覧会のタイトルが示す通り、それぞれ作品の実現化の方法として(枠組みとして)フィクションである事、作品が虚構の世界である事を明確化しているように見えるが、やなぎみわのエレベーターの《案内嬢の部屋1F》が群を抜いていたように感じた。

(東京国立近代美術館のホームページ内の“やなぎみわ”紹介文)
『 やなぎみわは、きわめて人工的な空間の中に、物思いにふけるようなエレベーターガールたちを配します。消費空間の中で商品と私たちをつなぐ役割の彼女たちもまた人工的に作られた商品のような相貌を帯びるのです。』

彼女を一躍有名にしたそのシリーズに対し、確かその当時、やなぎみわ当人も似たような事をNHKの「美の朝」とかで話していたような記憶がある。おそらく言葉として表出する以外にも、写真である事、写真合成である事、アートである事、案内嬢に対する思い、様々な動機が(当然の事ではあろうが)作家自身に内包しており、このシリーズに一つの結実を生んだのだろう。

抜粋したような、公にされる「コンセプト」「解説」という名のもとに発せられる言葉は、時にネタバレ的に作用して、作品はチープに、残りカスのように映りがちである。しかしながら、この《案内嬢の部屋1F》には、どんな作者/周りの言葉も撥ね除ける、ある力が存在している事だけは確かであると思われた。

山本糾展「QUICKSILVER」(2007.2.26-3.17) ヒノギャラリー
私が彼の作品を観たのはこれで三回目である。一度目は2002年に東京都現代美術館で行なわれた「傾く小屋」展、二度目は銀座のギャラリーイセヨシ「時間の庭」展である。

山本氏の写真から沸き起こる感動とは一体何なのだろうか。モノクロの写真に今回映るのは、工場からの、白く巨大な、どこか水爆実験の映像を喚起させる排煙達である。それが排煙である事、排煙という物質の持つ歴史性、或いは排煙に対して無意識的に私が抱いていた何かが、私の鑑賞に影響を与えていたのだろうか。展覧会タイトルの「QUICKSILVER」つまり「水銀」は何を意味し、作品鑑賞にどんな効果を与えていたのだろうか。そう、この文章を書きながら、はじめてそんな基本的な部分に意識を及ばせる。

「写真を撮る」という写真家の意思が、紙やら何やらの物質としての様々な媒介物と出会い、そしてその果てで、紙でも作者の思い入れなどでもなく、「写真」の重さ、体温が、ただ、そこでは現象している。そんな気がした。

今更ながら検索するとインタビューが出て来た。
携帯オサルスのおすすめランチ ランチdeチュ」その100(2003)
http://www.gaden.jp/info/2003a/031008/1008.htm

2007_0325_0851
配布されていた、光沢加工を施されたリーフレットも、そのまま重い額縁に入れて飾りたい気分にさせられる完成度。ヤラレタ。

内海聖史展「色彩に入る」(2007.3.9-4.1) 資生堂ギャラリー
新進アーティストの支援を目的に、公募された展覧会プランから三名のアーティストを選出し、資生堂ギャラリーで個展の機会を与える「shiseido art egg」(シセイドウ アートエッグ)の第一回。総応募数650件から選ばれたのは平野薫(インスタレーション)、水越香重子(映像)、内海聖史(絵画)。私が今回観に行った内海聖史展は、この一連の個展最後の展覧会。残念ながら他二名の展覧会は観る事が出来なかった。四月中旬にこの三名の中から「shiseido art egg賞」なる「一番」が決定されるらしいが、比較出来ないのが残念。

内海聖史氏の作品は、サイトスペシフィックであると、会場での配布物には書かれているが、会場との関係は、私にはまったく見出せなかった。巨大な作品と会場の隙間から、大きい印象だった資生堂の会場が、やけに小さく見える。表現のポイント、何をもって表現としているのかが、明確ではないような気がしたが、モダニズム系抽象画を、その象徴であるようなスケールと、装飾的な「美しさ」によって、メタ的に描いているというような事なのだろうか。

とは言え、さすがに長い間、キャンバス(パネル?)と向かい合い、一つの方法論を徹底して来たキャリアを持つだけあって、絵の具の冴えは抜群だ。絵の具が冴えるという事は、造形的に、絵の具のやり取りに心血を注いで来た経験の成せる技に他ならないし、その実直な態度は、目指されている物、消失点の先がたとえ何であったとしても、胸を打つ要素を蓄えて来る。

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3/16 森美術館「笑い」

森美術館日本美術が笑う:縄文から20世紀初頭まで」展、「笑い展:現代アートにみる「おかしみ」の事情」「ジョン・ウッド&ポール・ハリソン」展を見る。

それぞれにそれなりに面白いが、何より量が膨大。取り分け映像作品が多い。しかも5分やそこらであれば、そこそこ多くても観る事は可能だろうが、中には30分越え、50分越えの映像作品もある。三時間以上居たけれど、全てを鑑賞する事は叶わなかった。一つの画面で同コンセプトの、それぞれ20秒〜1分ほどのアイディアを延々と、多分40分?くらいだったと思うが、垂れ流す形の物もある。なるべく観るように心がけたが、見ていると、観客の誰もがほとんど全ての作品を通り抜けていっているのがわかる。観ていないのだ。文字/言葉を使った作品に関しても同様の事が言える。誰もが通り過ぎるだけ。そしておそらく作っている作者本人も、全てを鑑賞される事等、毛頭前提にないのだろう。もちろん僕の鑑賞の仕方は、プロパーのそれなのだろうとは思うが、何か引っかかる。

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2007年2月 8日 (木曜日)

地図上の

自身に馴染みのある場所、例えば自宅の近所や旅先の地図を広げ、記憶をたよりに、刺繍によって再びその路地、その風景を散策するアーティスト・秋山さやかの作品について、なんとなくベッドの上で寝転びながら思い出したので、何となく書いておく。

実際の作品は2000年のフィリップモリス・アートアワードの会場で見たのと、平面作家の推薦公募展「VOCA」展、それから確か森美術館「六本木クロッシング」で見たくらいしかないと思う。はじめて作品を見た第一印象で、私にはコンセプチュアル・アーティスト・河原温の《I Went》という作品のシリーズ(日々移動した痕跡をコピーされた地図上に赤線で示していく)が思い出されてしまって、それ以上踏み込んで見るという事はなかった。

秋山さやかの作品は私の知る限り、平面状のものであり、せいぜい数センチ、刺繍等の画材によって盛り上がりがあるくらいであり、移動可能な作品自律型と言う事が出来る。一見して、地図の図柄は制作の過程とコンセプトの鑑賞者への提示、宣言的な形では機能してはいるが、それ以上の意味はないように思われる。それら支持体となっている場所はほとんどの鑑賞者にとっては無数のどこでもいい場所の一つであり、それを本当に親密と感じているのは作者である秋山ただ一人であるからだ。そうした支持体を得る事によって、この制作者は、自らの手でホワイトキューブを獲得したのだろう。

誰にでもわかる方法、つまり制作者にとってだけ重要な意味を持っていて、鑑賞者には関係がない、という制作者と鑑賞者の間にある崖を、地図を用いる事によって、白日の下に曝すという方法で、個人的な体験によるその当人以外には絶対にわかり得ない「思い出」をうねうねとしたカラフルな刺繍という物体に封じ込めたと言えるのではないだろうか。そこで見えて来るものは、おそらく殺人という事以外には誰にも脅かす事の出来ない個人的な意識体験(感覚質)の存在である。

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2007年1月31日 (水曜日)

金刀比羅宮:円山応挙

前回の日記(地中美術館:サイトスペシフィック)の
最後にも書いたが、
通常サイトスペシフィックと言う場合、
前提としてアーティストが関わる以前に、
既に歴史・記憶を持ち、形を持った場所があり、
それに対してのアプローチとして作品が作られ、
設置される事を指す。

地中美術館のようにアーティストが、
建築から何から何までアーティストが関わって制作が
行なわれる事は非常に稀な事である。

クリスト&ジャンヌ=クロードの特定の場所、
(マイアミ付近の湾に浮かぶ11の島の周りの海や、
ポン・ヌフの橋、ドイツの国会議事堂など)を梱包したり、
カーテンをかけたりした行為は、それぞれの場所を、
観念によって浸食する事で作品足ろうとする、
サイトスペシフィック作品であると言えるだろうし、
ランド・アート、アース・ワーク、
それからパブリック・アートもまたこの名で語られる。
つまりサイトスペシフィックとは極めて広義の
ぼんゆありとした言葉なのだ。

---------------
直島に行った明くる日、金刀比羅宮へ行く。
長い階段を延々と昇り、各文化施設
(実際にはそのほとんどをタイミングを逸し
観れなかったのだが)、
鈴木了二の金刀比羅宮プロジェクト等を鑑賞。

建築そのものはもちろんであるが、
その中で、表書院を飾る円山応挙(1733〜1795)の
障壁画もまた、サイトスペシフィックな作品、
建築に帰属する性質を持った絵画と言える。
90枚全てが国の重要文化財に指定される
江戸中期に制作した応挙の代表作。

その全ては襖絵であり、実際に表書院の広い各部屋に
設えられていたわけだが、鑑賞者は各部屋を繋ぐ、
長い縁側のような渡り廊下からガラス越しに、
4〜6メートル離れたそれぞれの空間を眺める。

「遊虎図」に描かれた虎のコミカルで
多様な表情は、否応無く観客の視線を引きつけ、
それは時間を止め、瞬間、その周囲、部屋全体に、
湿度を伴う、どろっとした重い
大きなうねりを体感させる。

そして「山水図」は、アメリカ抽象表現主義、
カラーフィールド・ペインティングの作家、
クリフォード・スティルのように画面(襖)、
いや、観客の網膜をぶった切る。

ガラス越しに見ていたせいで、
ほとんどボックスアートを見るような形でしか
鑑賞する事は出来なかったわけだが、
しかし、これらの薄暗い自然光に照らされた障壁画は、
近代的な「絵画」というよりも、
むしろ古代洞窟壁画のような、観るものの共振を強要する、
原初的な体験の場として、その佇まいを見せていた。

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2007年1月30日 (火曜日)

地中美術館:サイトスペシフィック

1

地中美術館はモネ、デ・マリア、タレルという
一人の歴史的巨匠と二人の同時代のアーティストに、
サイトスペシフィックな場を与えた美術館として
2004年7月に誕生した。

作家の要求に即して建造されたその内部空間は、
そうした特定の作品の為だけに用意されたというだけでなく、
紛れもなくその空間自体が体験的な作品として
成立しているかに見える。

私にはそもそもサイトスペシフィックという言葉を
どのくらいの言葉として解釈し、
使用するかという事に躊躇があった。

自身の作品が、それを展示する場というものを
意識しつつ制作され、かつ、
展示空間なくしては成立し得ぬ展示形態を、
昨今、基本にして考えを進めていた事から
来るものである事は疑い用のない事である。

もっと言えばその言葉に少なからぬ
個人的な期待があった為に見失っていた部分、
過剰に意味を付加していた事を
認めなくてはならない。

サイトスペシフィックな空間。
サイトスペシフィックな作品。
実際には、これらの言葉に一般的にそれほど特別な意味はなく、
ただ「作品と建築(特定の場所)が一体化した空間」、
くらいに捉えるのが妥当であり、
「作品=設置空間(建築)」という図式が成り立つ
状況の事を指すと考えるのがわかりやすい。

そうした状態とはどういう意味を
持ちうるのかといった議論には発展すれど、
表現の一形式として、他のものと並列関係に
あると言っていい。

しかしそれだけであれば、アーティストが
莫大な資金を得て、自由に使えるマテリアルが一つ
増えたというだけにしかならない。

もちろんそうしなくては表現出来ない何かというものが
あるという事は、今回地中美術館を訪れて、
しっかと身体に染み込ませる事は出来たわけだが、
何か釈然としないものが残るのは、
モネの部屋における絵画と、絵画の為にと
設えられた真っ白く崇高な部屋との関係性に
あるのかも知れない。

2

絵画を見る為に一番適した環境とは
如何なるものだろうか。

絵画にもいろいろある。
ベラスケスのように筆致を最大限に生かし、
描かれる対称がどっしりとした存在感を讃えながらも、
その均質な薄塗りの絵の具故に、
光の加減でさーっと全てのキャンバスの
目が美しくその姿を現す様態のものもあれば、
それこそモネのように絵の具の立体感までもが
色彩の内に計算されているかのように、
それが描かれたものであるという現実を
あらわにする事で、鑑賞者を絵の具、筆致と共振させる
ところに絵画としての現象・イリュージョンを
成立させるものもある。

一見普遍的ともみえる絵画という形式の中でも
様々な表現方法と、それに見合う設置環境があるという事は
誰しも異論の余地はないだろう。

もちろん地中美術館でのモネ室では
オランジェリー美術館や、様々なモネの残した
書簡を下敷きに、慎重に「モネの絵画」の為の
部屋が構築されたことには違いない。
また、モネ自身も、サイトスペシフィックな
展示空間を所望していた事は、
最晩年、円形の空間に展示する事を前提として、
一連の睡蓮シリーズが描かれた事からも、
確かな事実である。

しかしながら地中美術館でのこの空間を
サイトスペシフィックな空間と呼ぶ事は出来るかも知れないが、
絵画の矩形の力は思った以上に強烈であり、
表現を行なっているのはキャンバスそのものに
他ならないわけだから、空間自体を作品と
呼ぶ事は不可能なのではないかという気がする。

反面、如何なる場所においても絵画は展示された場所の
影響を受けない事はない。
どんな絵画も鑑賞者が出会った場、美術館、邸宅、
特有の見え方をするのは、自明の事である。

そう考えれば、どんな状況化においてでも、
場所は作品を演出するサイトスペシフィックな空間であり、
また、作品は場所を演出するサイトスペシフィックな作品であり、
その展示された場所はサイトスペシフィックな作品と
呼ぶ事も可能であるように思われる。

つまり如何なる物体であろうとも、設置される空間なしで
物体足り得るという事はあり得ず、物体がある限り、
それは空間をその物体は変容させている事は、
どんな場合に置いても言える事なのである。

そうした地点から眺めた時、地中美術館のモネ室を
あえてサイトスペシフィックと呼ぶ意味は風化する事は
言うまでもない。

さらに言えば、デ・マリアの
「タイム/タイムレス/ノータイム」のように
その部屋自体が作品化し、最初に言ったいわゆる
サイトスペシフィックな作品/空間である状況、
つまり完全に「場=作品」となった所で、
そこでは「作品が置かれた場」という意識は、はぎ取られる。

ではそうなった所で、作品にとって、
設置されるべき場とは消失したのだろうか。
サイトスペシフィックな作品とは、
純粋に作品が自律した状況なのだろうか。

それとも観客は部屋自体を作品と見なすわけであるから、
作品が置かれた場というのは、
「場=作品」と化した時点で、
もっと大枠の場、すなわち美術館のその部屋に至るまでの
通路だとか、美術館のある土地、に、転換するに過ぎず、
言わば巨大なボックス・アートをもって
サイトスペシフィックな作品と言うべきなのであろうか。

「場=作品」であり、そこにおいて仮に場が
消失したのであれば、建築ごと作品であるが故に移動が出来ない、
というだけのものであり、コンセプトとして移動は
いくらでも可能なのものであると言える。

少なくともモネの部屋について言えば、
その空間を築き上げているものは、
彼の絵画を如何に「正しく」機能させるか、という
消失点に向かう意思であり、
あえて直島のあの場所である必然というものは、
絵画の所有者やギャラリーを建築する側の
個人的な由来によるものでしかないように思われる。
それ故に移動可能なサイトスペシフィックと言っていいだろう。

3

そして、デ・マリアの
「タイム/タイムレス/ノータイム」においても、
この場、つまり直島にある必然性というものを
感じる事は出来ない。

宗教的祭壇のような部屋に規則正しく配置された、
幾何形態の羅列に感じる事は、
それらが人の定めた「抽象」という概念の
代名詞であるが故に、「人間の介在」「人工」である。

意味の無いもののトートロジカルな提示によって、
意味の無いものの物理的な存在を確かめさせられる。

意味の分からないと言った方がよいかも知れないが、
ともあれ、鑑賞者との間に作品は目に見えるという、
その一点においてのみ、繋がりを持ち、
意味としての介入不可能、否、介入を禁止された
鑑賞者の脳は、まるで幼児のように、
あらゆるものを、意味を持たないものとして
見る事を強要されるのだ。

それ故にこの部屋を出た後、
次のアーティストの作品展示室にいたる階段や、
その間に見る事の出来る安藤忠雄による、
植物の植えられた四角コートヤードや、
雲の浮かぶ空さえもが、従来のようにただ通り過ぎる事の
出来るものではなくなってしまった。

まるで初めて見る形・初めて見る色、
全てが初めての体験のような不思議さを伴いながら、
背反的に、脳はそれらを再定義を急速に進める。
そうして、それらは意味を明かされぬ、
何かの為に作られた人工物の集積、
という極めて気味の悪い景色を鑑賞者に見せる事となった。
(それを私は悪意の固まりのように感じた)

しかしながらこれとてこの直島に存在しなくては
その効果を発揮し得なかったものであるかといえば、
そうは考えられない。

何らかの理由によってこの作品が直島に必要であるという風に
考えた者が居たかも知れないが、それはまた別の話である。

4

ではジェームス・タレルの作品はどうだろう。
タレルの作品は三点、地中美術館に設置されている。
その内二点は外光を遮断する中での、
光と色による人間の視覚に対しての実験と言え、
純粋で、原初的な驚きをもって鑑賞する事が出来る。

「オープン・フィールド」では包み込む四角い、
「アフラム、ペール・ブルー」では六角形の浮遊する光が
やはりその幾何形態と、光の吸い込まれるような抵抗感の
無さが、観客の感覚の焦点を眼球に集めてゆく。

監視役の(おそらく)アルバイトの
執拗な接近や解説が作品の鑑賞の邪魔になった事は
重ね重ね残念であったが、それを抜きにしても、
これほど色と光だけの何もない空間を、
それも考え事をする為だとかの、
何かの犠牲としてではなく、見つめ続ける経験を
させるだけでも一見の価値があったと言うべきである。

鑑賞者は眼球から侵入して来る光そのものとなり、
自分が個人である事を忘れる。
考えるという機能を働かせる機関が光で埋め尽くされ、
自分でなくなってゆく体験をするのだ。

しかしそうした中でも私達の持つ身体は、
もちろん決してなくなったりはしない。
当たり前の事である。
当たり前の事ではあるが、光と同化した時、
進める足の動き、目の端に映る自身の腕に、
少なからぬ驚きという違和感が備わっている事を
この作品は感じさせ、今まさに身体が
道なる世界への扉をまたごうとしている事に
気づかせる。

やはりこれも当たり前の事ではあるが、
鑑賞者はこの作品の経験を終了する。
重さも温度も距離感すらない光の向こう側の
存在を肌で感じつつ、やはり不自由な
こちら側に戻って来るのだ。

デ・マリアと同じように、
瞬間リセットされた知覚は、あらゆるものを
再発見させるように改めて感じさせ、
さらに、自分の至る所の身体の老いまでも鮮明に
思い知らすのである。

残るのは異世界での不思議な体験であり、
やはり、鑑賞者の日常的な知覚行為との断絶が、
この作品の効果を上げている。

5

一方「オープン・スカイ」でもまた、
四角く真っ白な、天井の高い部屋にぽっかりと
開けられた穴から見える現実の空が、
同じような効果を発する。

私の訪れたのはほぼ快晴と言っていい
良く晴れた昼下がりで、ブルーの
四角い平面が、まるでアブストラクト・ペインティングのように
浮かんでいるがしかし、そこに抵抗感はまるでなく、
吸い込まれるようであった。

白い壁には光源の見えぬ光線が
ギャラリーの形に沿って台形の明るい
形をきっぱりと現わし、どこかデ・マリアの部屋を
思い起こさせる幾何形態に彩られた抽象的な部屋を作る。

鑑賞者は四方の壁づたいに設置された木製のベンチに
腰掛け、思考をストップし、
口を半開きにして、その空間の一部となる。

しかしその真空と言ってよい程の静寂は、
ブルーの抽象空間に流れる一筋の鳥の出現によって、
或いはゆっくりと流れる雲の変容によって突如破られる。

それを境に急速に私の知覚は、周囲の様々な、
小さなざわめきを聞き取り、感じ始めたのだ。
全身の毛穴が開き、知覚はいよいよ鋭敏になり、
そのうちに空の色さえも、ゆっくりではあるが、
確実に、刻々と、変化している、と、
感じている気さえして来る。

溶解していた自分の身体は一気に
自分のもとへと帰って来、しっかりと定着する。

ここで作品はわけのわからない幾何形態でも、
鑑賞者とは切り離された物体でも現象でもなく、
知覚をまさに働かせている鑑賞者本人である事を
直感するのである。

これまで奇妙な異世界との断絶を感じて白雉化して
いた脳が動き出すのを感じる。
これは自分自身が発見した自分の現実の世界なのだと
いう認識が歓喜に変わるのだ。

タレルはこの作品をもって、
地中美術館を偶然この時、訪れた鑑賞者と、
直島の一点に開けられた四角い空、
その瞬間にしかあり得なかった四角い空とを
結びつけ、いまここでしかあり得ないものを、
鑑賞者自身のうちに呼び起こしたのである。

この作品は紛れもなく、
サイトスペシフィック「場=作品」である。
が、しかし、シリーズ化されて、
既に世界の至る所に散在している事実が照明するように、
コンセプトとして移動可能でもあり、
にもかかわらず、タレルはそこ(設置された場所)でしか、
そして鑑賞者一人一人がそれぞれ訪れた
タイミングでしか機能しない装置として、
作品を完成させたのだと私は考える。

そして文字通り「(物理的な)場=作品」でありながらも、
同時に「精神的な場=作品」
つまり「鑑賞者が作品(外界)と出会う場=作品」とした所に
言説に尽くしがたい、
他の作品との差異がそこに生まれ得たのではないか。

余りにも当たり前だが、同じものを見ていても
10人いれば10人それぞれの印象を抱くだろうし、
前提として同じものが同じものと他人も見ているかと言えば、
それは永遠の謎であるというほかない。

世界は変化し続け、また鑑賞者個人もまた変化し続ける。
鑑賞者はアーティストの出した答えを
ただ無条件に受け取る存在ではない。

鑑賞者は鑑賞者自身しか見れないものを常に見て、
感じている故に、作品とは鑑賞者の外側にあるのではなく、
如何なる場合においてでも、
鑑賞者と装置としての現象との間に生ずるものである。

「作品が成立する場」を物理空間の中でのみならず、
人間個人個人の出会いにまで思いを馳せて構築した
「オープン・スカイ」にやっと
サイトスペシフィックという言葉が機能を
果たした思いを私は抱いたが、それはまた別の言葉で語られる
種類のものであるのかも知れない。

-------
もっともこの地中美術館のようにアーティストが自由自在に
ギャラリーの設計から立ち会って建築と作品の融合を
目指す事は非常に稀な例であり、
サイトスペシフィックと言われる多くの場合、
「特定の場所に帰属する性質を持つ」作品の事を指す。
つまり、前提として歴史を持ち、形を持った場所があり、
それに対してのアプローチとして作品が作られ、
設置される事を指すのである。

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地中美術館:クロード・モネ

モネの睡蓮のシリーズが四点設えられている。
正面の壁に1915-26年制作の油彩画「睡蓮の池」
(縦200cm×横300cmのキャンバス2枚組)、
両脇の壁面にはそれぞれ
(左)1917- 19年(100cm×200cm)「睡蓮の池」、
(右)1914-17年(200cm×200cm)の「睡蓮」が設置され、
入り口開口部左に
1916-19年「睡 蓮-柳の反映」(100cm×200cm)がある。

オランジェリー美術館のモネの展示室を手本にし、
純粋に絵画を鑑賞するその一点の目的の為に
あらゆる方法が試されたとされる、その潔癖なまでに
観念に彩られた部屋は、逆にその為か、モネの絵画自体を
私には見にくくさせていた。

表面を保護するために、前面に張られたガラスは、
いくら遠く離れようともそこに映る部屋や他の作品の
反映からは逃れる事は出来ず、全体に薄く不均質に
もやをかけ、近くに寄ったとしても、眼の上に
ものもらいのような不穏な影を落とす。

壁に埋め込まれたキャンバス、大理石の白い額縁、
その隅から隅まで配慮された事の伺える様子は、
逆に、普段は気にもさせぬ細部へと私の眼を誘う。
一本ではなし得なかったのか、数本で組み合わされた
額縁同士の分け目、角の排除された白い部屋の
ペンキの塗りムラ、もはやモネの絵画それ自体を
鑑賞する弊害ばかりにしか私には思えない。

しかしながら、美術鑑賞それ自体が
観念に彩られた代物である事を
これほど決定的に思い知る事の出来る場というのも
他に思い起こす事も出来ない、
極めて希有な場である事だけは確かだろう。

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地中美術館:ジェームス・タレル

ここでは三点のタレル作品があり、
家プロジェクトの作品を合わせれば、
合計四点のタレルの作品を、直島では
観る事が出来る。

まず眼に飛び込んで来るのは、
補助光の抑制された地下の薄暗い
部屋の角に青白い、六角形の形状の光を
プロジェクションした
作品「アフラム、ペール・ブルー」である。

これはタレルの光を用いて制作を開始した
最初期の作品であるが、私にとっては初めての
体験であった。

白く、視覚的にテクスチャーの
極めて希薄なその白い光は一瞬にして、
それが壁に投影されている事はおろか、
如何なる仕組みである事かという思考を停止させる。

歩を進め、角度を変えてみると形を変える、
宙に浮くその光の物体は奇妙な官能的な場所へと誘う。

そして近づいてゆくと、
突如、黒い物体に暴力的に頭を殴られた思いがした。
私は身を仰け反り、その物体の正体を知る。
黒い物体とは自身の影であったのだ。

そうして私はこの作品の経験を終了し、
現実の世界に引き戻された。

私はこの作品の仕組みを事前に
諸メディアによって知っていたにも関わらず、
こうした体験を与える事の
出来るこの作品の持つ吸引性に驚く。

(残念ながら、全ての作品を見終わり、
再びこの作品の前に立った時、
あの衝撃は既に過去のものとなっていたのだが。)

そうしてこの作品について思いを馳せている中、
監視員に呼び止められ、
次の作品「オープン・フィールド」に
誘われ、解説を受け、四角く青い光の中に入る。

その青い光に満ちた部屋の奥にはさらに四角い
穴が開けられ、色身の違う青色の部屋が
まだ存在する事を確かめる事が出来、
奥には無限に空間が広がっているかに見える。

影はほぼ映らず、色によって支配され、
通常のものを見る作法を麻痺させるように、
設えられたらしいその空間は、距離感を失わせ、
眼球に浸食し、包み込む。

(そうして青い光に汚染された中で、振り返ると
入って来た、やはり四角い白いはずの開口部は
真っ赤な光の空間へと変貌している)

ほとんど何が起こっているのかわからないうちに、
それらはなされ、鑑賞者はなすがままに
青い光と同化する。
何かを考える余地などそこにはない。

この経験は決して心地の良いものではない。
強制的に白雉状況にされたその先に、
何かが見えるという事があるのかどうか、
私にはまだわからない。

(ここでもまた、アルバイトらしい監視員は
作品の邪魔にしか働かず、不快。)

「オープン・フィールド」を出て、少し進むと
天井が正方形に切り取られた、壁面の真っ白い、
「オープン・スカイ」の部屋がある。

四角く切り取られた、ツインタワービル崩壊時のように、
抽象的な真っ青な空は、それだけで、傍若無人に
鑑賞者の脳みそをぶっ飛ばす。

ここでもまた、鑑賞者はなすがままに、
白雉的な状況に追い込まれるわけだが、
私はそうして5分、10分と時間を過ごす中、
一筋の鳥が飛ぶのを目撃し、それをきっかけに
この部屋がこれまでの作品とはまったく違った
ものである事を理解する事が出来た。

人の脳の限界点まで追いやり、
見えない未開の地を見せる事に
この作品の目的が在るのではない。

この作品は、そのものを見る鑑賞者の内に
あらゆるタイミングによった一点の奇跡として
感覚とは浮上するものである事を
気が付かせる装置なのだ。

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地中美術館:ウォルター・デ・マリア

ウォルター・デ・マリア自身により、
細部にわたり構想され、完璧なまでに
作品化され、宗教的な観念に満ちた、部屋。
高い天井、部屋の幅いっぱいから延びる階段、
その中腹の踊り場には巨大な花崗岩の球体、
壁には27体の金箔を施した木製の立体
(三角柱・四角柱・五角柱)が三本セットで、
規則的に配置されている。
それはアート作品というよりもむしろ、
新興宗教の祭壇を思わせ、鑑賞者の息を詰まらせる。

ふらふらと動き回る、作品の安全を監視する
美術館のアルバイトは鑑賞に
すこぶる不利に働いてはいたと思うが、
建築と様々の幾何形態が何らかの観念・法則により、
完璧に統制を取られ、配置されている事から、
鑑賞者はその強大な「何らか」の存在を印象付けられる。

この作品を通過し、次の作家の作品に行き着くまでに
出会う安藤忠雄の壁はおろか、時折覗く空、雲、
全てが作り物、嘘もの、虚構の産物であるように映る。

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2007年1月24日 (水曜日)

地中美術館

直島01

香川県直島、ベネッセハウス、
家プロジェクト、及び地中美術館を観た。
それらの一連の作品に
(すべてを一くくりには決して出来るものではないが)
私が事前に得ることの出来た、
巷に溢れる種々様々な情報ソースから、
想像していたものより、
それほど逸脱しているものがあったとは思えないが、
取り分け地中美術館の
あらゆる細部に渡った徹底的なまでの
主催者・ベネッセコーポレーション及び福武總一郎、
建築家・安藤忠雄、そしてアーティスト達の
「美術」への思いはやはり訪れた者にしか判りえぬ、
只ならぬ気配を発していた。

財団法人直島福武美術館財団福武会長曰く、
「あたかも人間の心や精神の大切なところが
表に出ないように」
地中美術館は塩山に埋め込まれ、
外部からはその一部が頭を覗かせているのみであり、
三人の美術作家(ジェームス・タレル、
ウォルター・デ・マリア、クロード・モネ)の
永続的展示の為にその内部設計はなされている。

トンネルのように続く通路。
空は四角く切り抜かれ、不思議の国のアリスのような、
エッシャーのような、完璧な世界に鑑賞者は
安藤忠雄(の建築)によって誘われる。

※ちなみに上の写真は、直島へ行くフェリーから携帯電話で撮影したものだが、直島ではないのであしからず。

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2007年1月21日 (日曜日)

横浜ダンスコレクションR:その2

昨日観たダンスについてもう少し。

僕のやっているような
いわゆるビジュアル・アートとは異なり、
自作自演のダンス作品において、
制作者(演出家)自身の身体が同時に
マテリアルであるという事は、
完全に、そして永遠に、
制作者は自己の作品に対して
鑑賞者足り得る事がないという
事実は面白い。
そしてその側面は音楽よりもずっと強い。

そう考えれば、
自分で踊りつつ、
演出的視点で振付け可能な人もいる
というのは厳密にはウソであり、
そうした錯覚を抱かせる
人物もいるという位の感じだろうか。

そしてやはり、実際には、
例え絵画に対する画家のように、
或いは演劇における演出家のように、
自分の作品の全体を見渡す事の
出来る位置に立っているとされた場合においても、
客観視出来るというのは一つの作法に
則った言い方でしかない。

画家、或いは演出家は一人の観客として
自身の作品を眺める事は出来るし、
自分の好きなように作品を変える事も出来る。
しかし彼等は永遠にそれらを眺める自分以外の
観客一人一人ではあり得ず、
当然、鑑賞者一人一人が、一つのものに対して
同じ感情を抱くということはあり得ない。
自明であるが、他人同士が、
同じものを同じように見ているかどうかは
永遠の謎なのである。

自身で踊りつつ演出的観点をも持つという
言い方が成立するとき、そこには必ず
その言い方が成立する社会の共有する
言語/記号の介在が不可欠であり、
数学の大前提
「“例えば”1足す1を2としてみる」ところに
おいて築き上げられた社会的な信頼、
共同幻想に頼った表現と言える。


「振り付け」という言葉に対して
「インプロ(即興)」という言葉があるが、
振り付けのない即興が自由度が高い、
振り付けのあるものがそれ故に
自由度が制限されているという事はない。

即興という場においても、踊り手の肉体を
振り付けている(規定している)観念と偶然は
存在するはずだし、同時に、
舞台でなくとも全ての人間の営為は
即興であるとも言う事が出来る。

重要なのはいずれの場合でも、
その自分を振り付けている何ものかに対して、
如何なる投げかけをするかという事であり、
表現である以上、鑑賞者にとってそれが何かを
考える事ではないだろうか。

そうした投げかけ、
つまりその舞台を司る方法が、
「制作者の見せたいビジョン
(こうみてほしい)という消失点への疾走」
という事になった場合、
特に自作自演の、或いは即興のダンスにおいては、
制作者は、一ミクロも鑑賞者の立場にはなれない
(どのように表現されているか確認出来ない)
故に、ずいぶんと盲目的で、
刹那的な方法と言わざるを得ない。
昨日観た全てのダンサーに共通する
そうした不安定な表現の有り様は、
鑑賞者をどこに連れて行こうとしているのだろうか。

(無論、演者でありながら制作者(演出家)である道が
そこにしかないなどと言いたい訳ではない)

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2007年1月20日 (土曜日)

横浜ダンスコレクションR:その1

横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホールにて、
横浜ダンスコレクションR
“横浜ソロ×デュオ<Compétition>+”を観る。
出場振付家は、ホセ・ジェイ・B・クルス、ヤン・ヨンウン、
太田ゆかり、木野彩子。

変幻自在な振り付け(多く自身による)をこなす
しなやかに鍛え上げられた肉体に
この4組(5人)のダンスのレベルが
高い所にある事は、容易に理解出来る。

しかしいずれのケースにおいても、
表現過多という印象は否めない。

手の、身体の所作、
鍛え上げて来た歴史を垣間見せる
肉体の美しさ、面白さ、
そしてそれらを束ねる全体の物語(コンセプト)が、
それぞれが別個のものとして自分勝手に、
それぞれの意味を拡張して行って、
相殺し、うるさい。

もちろん各々の諸要素は制作者側にとっては
重要な共通項、接点があるのだろうが、
それらは同時に客体として開かれ、さらに
それぞれ偶然をもその都度取り込んでいる。

つまり何を表現するか、ではなく、
表現されてしまうものと、どう付き合うか、
といった思考の欠如を見たのである。

表現されるものとは、
制作者を形成する一部分としての
観念によって統括され得るものではなく、
制作者という一個の存在の
「外界との接点」であり、
その個人を個人と
特定するものなのではないだろうか。

何を表現するか、今、その人が
表現せねばならないものとは何か、
というのをどのように可視なものとして
ひねり出すかという事は、
まず制作する前から、
あるいは本番を向かえるより前に
あるのではなく、
その一つの本番、
そのものが一つの結論として
あるべきであるように思われる。

彼女らのポテンシャルを考えると
ひどくもったいない気持ちになる。

現わされる全てのものに情報は詰まっている。
舞台やギャラリー空間であれば事さらに、
普段、気にも止めない事にも
鑑賞者の視線は注がれる。

流される情報の道筋について考える事。

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2007年1月18日 (木曜日)

往復切符

夕方、唐突な思いつきから、
香川県直島のベネッセアートサイト
来週頭に行く事を決意し、
早速、深夜高速バスの往復チケットを手配した。

もちろんジェームス・タレル「オープン・スカイ」、
ウォル ター・デ・マリア「タイム/タイムレス/ノータイム」等の
いくつかのサイトスペシフィック作品を鑑賞する事が目的だ。

僕は2004年に滞在制作〜発表した、
国際芸術センター青森での作品(fold)からここまで、
モデリングした紙にドローイングしていったものを、
その場特有の空間に設置するといった、
いわゆるサイトスペシフィックな作品を作って来た。

に、も、関わらず、僕はほとんどと言ってよいほどに、
世界のそう呼ばれる作品達とは触れ合わずに
日々を費やして来てしまった。

それは僕の美術家としての怠慢であるにはおそらく違いない。
しかし同時に、どこか、自身の、
物体とその置かれる場との関係性への思いを
先鋭化してゆく為に、それらと出会う事を避けて来たような、
そんな思いもある。

とにかく今日、高松との往復切符を僕は買ったのだ。

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