カテゴリー「□ステートメント」の13件の記事

2008年8月21日 (木曜日)

掃除の効用(2)

べつにキレイ好きを自称したいわけでも、実際そんな言うほどキレイ好きなわけでもない。でも、埃ってぇーヤツが嫌いだ。

ヤツは目にモヤモヤをつくってその奥にある物を見えなくするし、埃自体マジ見えないものって言ってもいい。や、もちろん降り積もって溜まってる状態は、そして今展覧会の搬入設置作業で前回のエントリから問題にしてる状態も、広範に渡る面積と厚みを持った物質としてしっかりしっかり網膜に移り込むけれど、誰も埃を埃以上の物として見ないし、何かそういう(どういう?)研究をしている人でない限り、埃を分類しバリエーションを見ようなんて奇特な人はいない。見えてても見えてなくてもどうでもいい存在、誰も埃の個性を見ようとしない、と、いう意味で埃は目に見えない。

「埃」という言葉、或いは「埃」というイメージに対して人の持つ引き出しは極めて少ない。汚い。古い。灰色。普通“霞”としてしか埃は存在しない。要するに、というか、だから、というか、ヤツは強すぎる不透明な象徴性を常に人に押し付ける。汚い。古い。灰色。一般に、埃の奥に間違いなく潜在する物を(存在している事を知りつつも)素通りする事っていうのは一つの習わしになっている。

ぬいぐるみ トトロ あなただけの トトロのなかま ワサワサ まっくろくろすけ以前もこのブログで書いたが、今回展覧会を行なう会場はちょーっと風変わりな建物で、もともと電車の整備工場だった場所である。古い大きなその内部には想像の追いつけないたくさんの記憶の詰まった傷があり、私の展示するスペースには大きな北窓が二つ、並んでいる。しかしながらやはりそれら全てにはしっかりぴったりがっちりべっとりヤツが鎮座してやがってて、まったくもって鼻持ちならない。

人によっては奴らをして「歴史を感じる」なんて言うかも知れないけれど、何もアテになるもんじゃない。埃は霞としてモヤモヤとしか機能しないし、一体どう、何の歴史を感じれば良いのか皆目わからない。

だから清掃って仕事は潜在する建築やいろんな傷の歴史を洗い出す事にもなる。別にカンっぺきに駆除しなきゃダメとかって事はないし、そのキレイさの度合いによって洗い出しにどんだけ差異があるのかと言うとそんなにないと思うが、大事なのはヤツに汚染を許さない、目に霞を許さない、見る事を邪魔させない事だ。

まっくろくろすけは良いけどね。

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掃除の効用

ワルツほうきM&文化ちりとりセット所沢ビエンナーレ・プレ美術展会場(旧工場)にて自分の展示範囲を清掃。今回の展覧会では事前に会場を視察出来る回数に限りがあったので、あまり具体的に想像していなかったのだが、けっこうきったない。工場として使われていたというだけではなく、すき間風やすき間水(台風などによる浸水)と床にこびり付いた黒い油染みによって泥が固まり表面からは止めどなく砂土がサラサラザラザラ産出される。

もちろん全ての場所を100%に近い割合で清潔にする事が目的ならばバイトを雇い、強力掃除機バキュームでガーガーズンズン吸い取って、水をぶちまけカッパキで丸洗いという手段が適当、そうすべきだろう。しかしある程度に清潔である事は重要だが、この僕の展覧会場作業における目的は清潔にする事だけにあるわけではないので、とにかく一人でほうきを両手に握って淡々と動き続けた。(グループ展である故に、他のアーティストの場所との差が広がり過ぎるのもまた問題だ。)

疲労を考えれば、1〜2人お手伝いさんが欲しかったっていうのも本音ではあるけど、「トリック」の上田教授なら「手間のかかる事を」と眉間に皺を寄せてきっと言うだろうこの奇妙で面倒くさい作業を、こちらがさして気を使わずに恊働してくれる人はこの土壇場では見つかりそうにないし、やはり一人で時間をかけてというのがよりよいと思っているから仕方ない。さっそく親指と人差し指の間に新しい水ぶくれが出来て潰れた。

掃除するって事はその対象となる空間の面積の広さを知る事だ。床を隅から隅までほうきで湛然に掃き、壁の埃を出来る範囲落とす。汚れているから一ところ一度さらっと触れた程度では収まらない。何度も何度も掃いてはちりとりを傾ける。そうしてゆく事で、図面やメジャーでの採寸では図る事の出来ない、そこにある空間がどういう広さを持った、どういう光の届く場所であるのかを徐々に徐々に身体で知る事が出来るのだ。

旧知のセンチだとかインチだとかっていう尺度は確かに便利な場所を知る手段であるが、それはあくまである頭の中で想像をする手だての一つでしかないし、いっつもいっつもそうした表記し得る尺度を意識して身体を動かし、生活を送っているわけではないので、肉体の感覚とのズレがどうしてもある。それも驚くほどの大きさで。

さらに丸一日、ないし複数日の間、掃除っていうあまり変化のない単調な動作の繰り返しを行なう事は、単調であるがゆえに同じ精神的、肉体的な関わりとして、その場に降り注ぐ光や湿度、空気の移り変わりを感じ取ることが可能になる。

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2008年8月16日 (土曜日)

時間の上に

今度八月末より作品を出品する展覧会の会場は、もともと工場であった仕切りのまるでない広大な面積を内部に持つ“いわく”のたんまり詰め込まれている感じの(実際そうだろう)とても魅力的な建物で、通常の美術館やギャラリーなどと言ったいわゆる「美術作品を展示する為に設えられた場所」ではない。

私はアメリカを中心とした7つのアーティスト・イン・レジデンスの経験からそうした場所、つまり美術作品が存在する事をあらかじめ保証された空間ではない元来それ以外の目的を持って建造され使用されて来た場所で作品を披露する、存在せしめる事には慣れている、というかそのような事について長く考えて来た。それはよい。

しかし「美術作品を展示する為の場所ではない」とは場合によって、いわゆる美術作品と呼ばれる多くの“物理的物体”にとって不利な環境である可能性がある。それはまさに今回がそうで、既に出来上がったポスターにも

【台風や地震などの不可抗力により、予告なく内容の変更や会場を閉鎖する場合があります】

と注意書きを見ることが出来るが、さらに二回目の展示現場視察の折りには

「大雨が降ったらどこから雨漏りがあるかわからない」

旨知らされた。見ると壁のいくつもの不自然な箇所から眩しい外光が漏れ入って来ていた。“穴”が空いているのだ。

私の作品の多くの主素材は紙であり、今回出品を予定する作品もまたまたしかり。雨に弱い。風に弱い。雨が吹き込み作品に影響すると思われる範囲の壁穴は当然塞ぐとしても、どこから来るとも知れない雨漏りに完全に事前対応出来るとは思えない。いや10メートルを優に越す高さの天井そのものに対しては、いかなる策も用意出来ないかも知れない。もちろん降水量が年間で一番多い九月と言っても可能性として台風も大雨もなにも訪れない、雨漏りが生じてもまったくもって影響ない場所に落ちて来る、そういう場合もあり得るし、希望も期待もある。しかし・・。

物理的肉体を持ったどんな美術作品もいずれは朽ちる。原則的に永遠な物体というものはなく、時間の経過上にあっていかなる物質の状態も変化をし続ける。そのいずれは朽ちる“物体”が時間軸上にどれくらいの期間存在すべきか否か、或いは物体の状態の変化変容そのものは、基本的に私の作品の《表現》に(作品のコンセプトに)関係ない。今のところ。それは、作品というものが時間軸上に生じ、現象し、存在するその「キラメキそのもの」に、私が重要性を見出しているからに他ならない。

しかし他方、《表現》とは他者の目に触れて初めて「表に現わされた」もの(表現)になるのもまた道理で、それには時間軸上に少なからぬスペースを確保せねば実現しない(展示出来ない)のも確かな事である。ここで作品の実現にあたり背反するかに見える方針が生まれている事に気づく。後者、時間軸上に表現の為に少なからぬスペースを確保する事“保存”と、前者、生じ、現象し、存在する「キラメキそのもの」に重要性を見出す私の作品に対しての意志、作品の在り方である。と書いたところでこの両者間には優先順位が明確に存在する事がわかると思う。つまり《表現》を特化し、《表現》に従属する“アーティスト”である私にとって、この今回の場合の作品という物理的肉体の“保存への欲望”はいわば邪念とも言うべき代物なのである。もちろん後者(保存)はしっかりと考慮を継続すべき重大事だが、決して前者(表現)を干渉してはならない。

それにしても私のこの紙による作品、そして今計画しているインスタレーション(設置)は、あの展示会場(旧工場)の環境にはあまりにも危うい。予期される災害に対し当然出来得る限りの防護策は取る。が、出来得る限りとは・・囁きを重ねるしかない。

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2008年7月 4日 (金曜日)

とにもかくにも手を動かすも一向にはかどっている気分にならない

とにもかくにも手を動かすも一向にはかどっている気分にならない。そういう気分においそれとしてくれる作業/制作方法ではない事は重々嫌というほど承知しているし、経過の全般的にそうそう進度に振幅のあるものでもないわけだから、「一向にはかどっている気分にならない」なんて感じている心身の状態が、“いつも”と仮に呼ぶ制作の進行状況と違うという事になる。まあ、結構な割合で、まだまだだなーっとか思っているから、これはこれでいつもの状況と言えなくもないのだけど、こうした気分、つまりまだまだだーっと冷や汗を流したり、途方もなく(と感じさせる)霞がかる山頂にうんざりうだ〜っとするような心境は、虚弱な集中力を鍛え、高めてくれるので大歓迎だ。慢性的な腱鞘炎だってへっちゃら。焦って雑になる。周りが見えなくなって自分が何をしているのかわからない。そういう事はどんな事柄にもどんな時にも在る事で、そうした一切を引き受ける準備は出来ている。

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2008年6月30日 (月曜日)

“ごまかす”の語源は“ゴマフアザラシ”

フォトポスター『ゴマフアザラシ』【ポイント10倍★6/30AM9:59マデ】アニマルポスター 「・・・・この展覧会はごまかすってわけにもいかないしなぁ」先日、とある人気アーティストが、話の最中に、これから行なわれるその人の展覧会出品についてこんなような事を言っていた。この時、この人が僕に(或いは同席していたもう一人に)言いたかった事、言葉の意味した事が僕に正しく伝達されたのかどうか、この人の過去の作品・展覧会の中には、しばしばでも稀にでも“ごまかされた”ものがあるのか否か、という事はわからないし、今確認のしようがないし、この文章で今このエントリで僕が書こうとしている事とはあまり関係がない。しかしながら、こうした物言いをこの時生まれて初めて耳にしたのかと言えばけっしてそうではない。そして、そうしたいくらかの言葉を通り抜ける中で(無自覚に右から左へ受け流して来た程度だが)居心地の悪さ、耳障りの悪さ、違和感を、僕は僕の身体に少なからぬ量、蓄積させて来た気がする。

この日この時、僕の日常にとって、この“ごまかす”という単語自体があまりにも久しぶり過ぎたという事もあるのだろう、新鮮味を帯びて響いて来た、と、同時に、どういう意味内容をその 「・・・・この展覧会はごまかすってわけにもいかないしなぁ」が持っているのか皆目ちっとも解らなかった。もちろん“ごまかす”という単語がどういう意味を指し示す単語かはわかっているし、わかっていた。あんまり連呼してるとわかってるはずの単語でも疑心が生まれて来るので、Yahoo!辞書から以下、引用しておく。

ごまかす
1 本心を見やぶられないように、話をそらしたり、でまかせを言ったりして、その場やうわべをとりつくろう。「笑って―・す」「年を―・す」「世間の目を―・す」
2 人目を欺いて不正をする。「帳尻を―・す」「不良品を―・して売る」
◆「誤魔化す」「胡麻化す」などと当てて書く。

うん、まあそんなとこ。すると 「・・・・この展覧会はごまかすってわけにもいかないしなぁ」は 「・・・・この展覧会は本心を見破られないようにうわべをとりつくろうってわけにもいかないしなぁ」とか 「・・・・この展覧会は人目を欺いて不正をするってわけにもいかないしなぁ」とかって言い換えてみる事が出来るかも知れない。ついでに「ごまかす 作品」というキーワードでヤフー検索してみる。

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こんな感じ(上画像クリックで拡大)。まあ当たり前の事の確認だけど、見渡してみると“ごまかされる物事”とはつまり“本来的にあるべき状況”なるものが前提として設定されて初めて成立する状況・物体であり、“ごまかす”とは、そうした前提、或いは“こうあって欲しいという希望的ビジョン”に対しての背徳行為と言う事が出来そうである。

腐って腐臭を発するやっばい返品された肉をひき肉にしてもう一回、これ新鮮ピチピチだよって言って出荷したり、間違った表記をし たラベルをあえて何かのたくらみによって添付された肉は“ごまかされた”ものであり、消費者の求める本来あるべき状況・希望的ビジョンとはかけ離れたも のである。

アーティストの作品や展覧会に対しての関わりに本来あるべき状況・希望的ビジョンがあるとして、それがごまかされた状況とはつまり、腐って異臭のぷんっぷん漂う肉がもはや商品にはなり得ないように、アートではあり得ないのではないか。商品になり得ないものを商品であると偽るように、アートではあり得ないものをアートであると偽る事で得られる何かというのがあるのだろうか。

や、いやそもそもアーティストの作品や展覧会に対しての関わりに、本来あるべき状況・希望的ビジョンが存在するって事自体わからない。ごまかされる対象が美術制作の内に存在する事がわからないのだ。

べつに自分の作品には“ごまかし”は一切ないなんていう無意味な自己顕示をしたいわけではない。作品や展覧会に対し“ごまかす”と言える感覚がわかり得な いだけに、“ごまかさない”“ごまかしがない”と言える感覚もまたわかり得ないから、そうした事が一切ないなどという事も又一切言えない。

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ちなみに語源サイト「語源由来辞典」によると以下が“ごまかす”の本当の由来なんだそうだ。

ごまかすは、江戸時代から見られる語で、漢字で「誤魔化す」と書くのは当て字である。
ごまかすの語源には、二通りの説がある。
ひとつは、祈祷の際に焚く「護摩(ごま)」に、「紛らかす(まぎらかす)」などと同じ、接尾語「かす」が付き、ごまかすになったとする説。
この説は、弘法大師の護摩の灰と偽り、ただの灰を売る詐欺がいたため、その詐欺を「護摩の灰」、その行為を「ごまかす」と言ったことからとされる。
もうひとつは、「胡麻菓子(ごまかし)」を語源とする説。
「胡麻菓子」とは、江戸時代の「胡麻胴乱(ごまどうらん)」という菓子のことで、中が空洞になっているため、見掛け倒しのたとえに用いられたことによる。

http://gogen-allguide.com/ko/gomakasu.html

そしてゴマフアザラシは漢字で「胡麻斑海豹」(笑)

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2008年6月22日 (日曜日)

だいたい

このところ継続して制作している272センチ四方の平面作品。これはだいたい延べ二ヶ月くらいで出来上がる。というかこれまで出来上がって来てる。このシリーズにおいて、あくまで「だいたい」で、決して同じという事はないが、このサイズはだいたい二ヶ月の作品であり、なんとなくでもこのシリーズ作品は、だいたいいつ頃完成に至るか予想のつくもののような気がしていた。

まあ、ここまでの物言いで察しは付くだろうが、このシリーズは、最初から二ヶ月という時間を費やす事自体に意味を見出して作り始めたシリーズではないし、紙のサイズも、経験と直感によって、描く一筆一筆のサイズやその質、出来上がってゆくテクスチュアとの相関関係などから導き出された。しかしだからと言って、その費やされた時間というものに意味がないわけでも、やはり、ないのだろうとも思う。

やっぱりいまも今日も作り作り続けているわけだが、昨日で作り始めて丸々一ヶ月が経過した。一ヶ月は経過したが、予想された一ヶ月分の仕事の量ではないようだ。このシリーズにおいて進行は、単純に一見して判断出来る筆致の量によって推し量る事が出来る。途中段階のそこに至るまでの筆致の量をそれが描かれた日数で割り、一日分の量を算出すれば、制作される紙の総サイズ内の余白が、その途中段階から、おおよそどの位の日数でうずめられるか、つまり完成に至るかという検討が付く。

しかしながら前々回の同シリーズ(同サイズ)作品のペースと、前回のペース、そして今回との差異が、いったいどういうポイントにあるのかという事が明確に理解されない以上、これも当てになるものではない。まるで。てんで。実際理解出来ないし、だから当てにならない。

今現在進行中の作品において、少ない統計から垣間見えた二ヶ月のペースってものを基準にすれば、この今の段階、明らかな遅延をしている。紙面を見ると、遅いだけあってか確かに大部分の筆致の単位は、前作と比較して、目に見えて細かくなっているようだ。さらにそれには、つまり筆致が細かくなっているという事実には、起因となるものがきっとあるには違いないが、そこで何が原因となっているかを考える事が、作品にとって重要であるようにも思えない。いや、おそらく暴いてはいけない領域のものである。第一、意識的とも無意識的とも言えない実戦としての筆致が無数に、本当に無数に錯綜していて、起因となるものを特定するなんて事が可能であるとも到底思えない。だから制作のペースの差異は謎のまま、「だいたい」のままで、常常、完成の時を推し量り切る事は出来ない。

実は、この作品が今本当のところ遅延しているのかどうかもわからない。終わってみれば二ヶ月ピッタリという事だって充分に考えられるし、もっともっと早くに完成する可能性だってまだ残している。

もちろんこの遅延は善し悪しとは無縁である。

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2007年5月13日 (日曜日)

トラルファマドール星の小説

トラルファマドール星の小説とは次のようなものであるそうだ。トラルファマドール星人は語る。(「スローターハウス5」カート・ヴォネガット・ジュニア著 伊藤典夫訳より引用)

記号のかたまりは、それぞれやむにやまれぬ簡潔なメッセージなのだーそれぞれに事態なり情景なりが描かれている。われわれトラルファマドール星人は、それをつぎからつぎというふうでなく、いっぺんに読む。メッセージはすべて作者によって入念に選び抜かれたものだが、それぞれのあいだには、べつにこれといった関係はない。ただそれらをいっぺんに読むと、驚きにみちた、美しく底深い人生のイメージがうかびあがるのだ。始まりもなければ、中間も、終りもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない。われわれがこうした本を愛するのは、多くのすばらしい瞬間の深みをそこで一度にながめることができるからだ

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2007年5月11日 (金曜日)

もくもくもくもく

Nakana あいかわらず、あいかわらず、あいかわらずに描いています。あいかわらず腰が痛いですが、あいかわらずに進行して行かないところが、この絵を描く方法のいいとこです。いじけて丸まっているようにも見えますが、あいかわらずノリノリです。

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2007年4月11日 (水曜日)

制作の方法

制作の方法を発見したのは、机の上でうんうん唸ってこれだって見つけたってんではなくて、いろんな偶然の賜物として、やって来た、という感じかもな。 と、今更ながら思った。ずっとうんうん唸っていたし、今もそう変わらないけど。

自分でもわからな い自分がまるごと現象してゆくような感覚がそこにあって、それについてこれまでいろいろいろ考えて来たし、これからも考えるんだろうけど、結局の所、いつも自分が何を描いているのかわからないし、まあ、それで もいいかと思っていたりもして、もっともっと制作に没頭したいという欲求が日に日に高まって来ている。

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2007年4月10日 (火曜日)

ATMOSPHERIC WORKS

◉シャープペンシルによるドローイング・シリーズ【ATMOSPHERIC WORKS】についてのメモ

Saikinwork_1

□見る為のフレーム
 あるギャラリーの空間には巨大な窓があり、その窓のすぐ外はそのギャラリーを一部に持つ建築の一つの見せ所である大きな池が広がっている。さらに池を前景に、この建築の所在する山の中腹の自然を感じる事が出来る仕組みがそこにはある。天候により、時間により、日ごと、そして季節ごとに実に様々な光をこのギャラリーは浴び、訪れる鑑賞者は、その時々に展示される作品たちと共に、それぞれの瞬間にそれぞれの瞬間でしか現れ得ない空間を共有するのだ。
 しかしここで見る事の出来る、とされる自然、ないし景観は当然、そうしたものを網膜と身体で触っている主体、つまり鑑賞者という媒介があってこそ成立しているに他ならない。人間はそれぞれの所有するフレームなしでは物事を「見る」という事は出来ない。物事はいつもどんなものも中立にしか存在せず、そこには如何なる価値も存在していると同時に存在していない。それらはある人にとっては気持ちのいい清々しい景色だったとしても、ある人にはお腹の痛くなるような因子が組み込まれている事だってある。当人の、その瞬間のフレームがどのようなものであるか、一体何に照準を合わせているかという事で「見る」という行為が、当人自身に与える印象は、どんな所にも転がってゆくものだ。

□地中美術館のアート
私は今年(2007年)の一月、建築家・安藤忠雄氏の手による香川県直島の地中美術館を訪れた。その外観から内部の採光に至るまで、徹底的に計算された安藤建築の哲学に、私は圧倒されると同時に、正直ホワイトキューブ(中立的な空間)を基本とする現代の美術館としては少々我が出過ぎているような(鬱陶しい)気持ちで、恒久展示される二人の現代作家(ジェームス・タレル、ウォルター・デ・マリア)と歴史的巨匠(クロード・モネ)の部屋に臨んだ。
 しかしどうだろう一人一人の作家の部屋を出る度に、それぞれ安藤建築の光、安藤建築の空、そう思っていたあらゆる空間、あらゆる隙間が、そしてさらに遠くに垣間見える自然物であるはずの木々さえも、全く異なって見えたのだ。ある時には全てがミニチュアモデルの人工的な作り物のように、ある時は驚くほど新鮮な見知らぬ色彩を放ってそこに存在しており、そして気が付くと、私の頭からは安藤忠雄氏の事はすっかりすっぽり消えてなくなっていたのである。
 当初、各展示室を訪れる以前は紛れもなく安藤忠雄氏の視線、フレーミングによって、半ば押し付けられるようにして、空や木々の臨める景色を私の網膜は捉えていた(それに対して私がいかに感じ、思おうが)それらが、展示室を出るごとに、デ・マリアの形成する宗教的世界に再フレーミングがなされ、タレルの眩い光の作品にリセットされた網膜によって景観は既知のものではなくなってしまったのだ。

□異世界を開示するフレーム
 こうした偉大な作品達は、私達鑑賞者にフレーミングの存在を決定的に意識させ、さらにその強大な力によって、全く知らない世界が私達の現実のすぐ側に横たわっている事を伝える。しかし、、私はその先の答えを見つける事が出来ないか、と、夢想する。
 確かにマリアの厳格な行きの詰まるような空間は、強烈な印象をいまだ私の記憶に残しているし、それについて考えもする。
 しかし、私は、私の作品では、異世界、つまりフレームは「(作品によって)与えられる」という存在である以上に、鑑賞者自ら「作り上げた」と実感出来るものにならないかと考える。
 私のシャープペンシルの細かい筆致の積み重ねによる作品は、鑑賞者それぞれの、それぞれでしか獲得し得ない様々なイメージとの出会いの実感が目指されている。それが伝えるのは、異世界は、隣だとかの鑑賞者と関係のないところではなく、それぞれの内部に存在するという事である。このコンセプトの実現は、すなわち作品が、それを見た人の世界を変える即戦力となる事を意味するはずだ。

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2007年4月 9日 (月曜日)

完全なる抽象

シャープペンシルによるドローイング・シリーズ【ATMOSPHERIC WORKS】についてのメモ 

紙に向かって背を丸め、シャープペンシルを走らせながら、そういえば制作をしている時には、決まって目を開けてい、る、な、と、思った。実際は目を開けているな〜なんて生易しいものではなく、眉間から額にかけてにこれでもかっというほど力を込めて、眼球に身体の全血液が集まって来てんじゃないのってくらいに、行為の対象である洋紙の手元、指先のシャーペンから線が生み出てくる瞬間を凝視しているわけで、何時間制作しようが、行為の瞬間は常に、ほとんど絶対的にと言ってもいいくらい目をクワッと見開いている。だからひとたび休憩休憩っと、紙から目を離せば、ほとんど何にも焦点を合わせる事が出来ないで、距離感もおぼつかない茫洋とした時間をしばらく過ごさなくてはならない。

手帖なんかに、展示のプランの為にとドローイング、というか、落書きをする時には、逆にかなりの割合で目を閉じて、或いはどこかそっぽを向いて線を引いてみたり、手癖のパターンを繰り返してある程度の面積を筆致で埋めてみたり、盲目の時間を過ごす。そうすると、時に自分のその時々に思考していた何らかの物事との関連性をそこなう事なく、自分ならざるモノの介入を導き、とってもいいヒントを指し示すイメージが姿を現したりして楽しい。

前者、目を見開いている場合は、否が応でもそこには統制の意思が介在する。後者の場合に、統制から肉体を解き放してみる事で獲得し得た、自分の内にある他者性みたいなものは、ほとんど介在しなくなるわけだ。

ま、あ、そう書いてみたものの、ほとんど介在しなくなるなんていうは大げさで、っていうかほぼウソで、実際絵画制作の多くの現場ではそんな事なく、目を閉じるのと同じように、作家の意思以外のいろんな要素が絵画制作には入り込んでいる。絵画制作は、全体像の統制によって作られているのがスタンダードだと言ってもいい。

目を見開いていたって、描く範囲を決定する手の長さや身長は人それぞれ限界があるし、そういった肉体的な特徴はそれぞれに特異な表現を、作者の意思とは関係なく繰り広げる。そうした知らず知らずのうちに紛れ込んだ自身の肉体の表現や、扱いきれない画材や絵の具の物理的な現象という明らかな他者を迎え入れ、たくさんの様々な要素を理想とする場所(それが制作の開始時にあろうがなかろうが)まで連れて行く事に目は尽力する。

しかし、私の画面を統制するのは、その制作の方法である。画材とその扱いの選出、それから制作過程の全体を身体の姿勢から何からが、制作の始めにきっちりと決定される。制作途中、目は画面を統制するどころか、全体を見る事もなかなか叶わない状況を強いられる。私は徹底的に眼球による統制の矛先を、画面全体ではなく、唯一手元に置く。手元にだけに置く事で、筆致を焼き付ける意思だけが紙と現象するように仕向けるのだ。眼球は次の一手を打つ事だけに統制の力を注ぐようになる。焦点を一点に集中された眼球の意思は瞬間にのみ働き続ける。

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2007年2月 6日 (火曜日)

制作時間

私の制作は朝始まって夜終わる。
或いは夜始まって翌日昼に終わる。
そしてそのどちらでもどれでもない。
つまりは、一日24時間のサイクルを
基本にしては出来ていない。
私が制作を始めると(と言っても実際に「作業」を
していようがいまいが常に制作の登坂にいるのだが)、
それに応じてその都度、
私にとっての「一日」が設定されるため、
大半の「一日」は24時間ではなく、
したがって「一年」は365日ではない。
習慣というものの束縛は思ったよりも大きく、
簡単に手足の自由を奪うからだ。

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2007年2月 4日 (日曜日)

創造のトートロジー

自身の作品及び制作について:昨年(2006年)半ば、アメリカ・ニューメキシコ州・ロズウェルにて。

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創造のトートロジー
〜アメリカ・Roswell Arist-in-Residence(2006)での仕事から〜


僕はアメリカでは言葉がまだまだ不自由なもんだから、簡単なやり取りしか出来ない。そしてほとんどの場合が同じようなレスポンスで、"Oh Hajime!" "Are you crazy!?" "Amazing!" "Truly Beautiful!!" "Excellent!" "Marvelous!" "I'm impressed!" "That's Incredible!"・・・・ で、抱きつかれるとか・・(笑)、、はぁ。。2006年、4ヶ月に渡って滞在したロズウェルでの「アート」にはいわゆる都会/アートシーンに絡んでくるような舞台はまず望めない。文字通りアートフェアやビエンナーレ、コンテンポラリーのギャラリーや美術館といった類いの「舞台」がないのはもちろんですが、「アート」というのは日本でも多くそうであるように1950年代以前のヨーロッパ的な物の見方がいまだその席にどっしりと腰を落ち着かせています。

とは言え実情としては都市部においてさえ、どこまで「アート」が資本主義に去勢される事なく、人間の、或いは社会の普遍的な価値を提起する力を持ち得ているかというと甚だ怪しいとしか言う他ありません。逆にロズウェルにおいて言えばいわゆる「コンテンポラリーアート」はないとは言え、極限的に荒涼としたと形容すべき部類に入るこの土地に住む人間は紛れもなく、インターネットで買い物をし、気軽にどこへでも小旅行を楽しめる現代人です。当然の事ながら。それも僕のように日本のさらに都市部と呼ばれる地域で生まれ育った者にとっては砂嵐に呼吸を遮られながらも、環境と自分自身を客観的に眺める事の出来る、いわば「現代人である自分」と、「人間としての普遍的遺伝子」の二極を痛感させられる状況が同時に意識される特殊な状況と言う事が出来ます。そして僕はこうした奇妙な二極間にこそ、真に重要な何かを気が付かせるものが存在しているのではないかと夢想します。

とは言えここでの「アート」の内実に関して話す事と言えば、具体的な話はたいていばくぜーんとしてて、というかつまんない質問ばかり。ここに引っ越して来る前に三ヶ月間やはりアーティスト・イン・レジデンスで制作に展覧会にと滞在した、オマハ(ネブラスカ州)Bemis Centerでは話が発展しそうな気配は多からずあったのですが、やはり英語の問題によって「プライヴェートのもっと深い意味を教えてくれ」何て言われるともうお手上げでした。なんだかなーと思いつつ、つつ、まあなんとなく、というかかなり本気で、作品で相手をやっつけようとして作ってるような雰囲気が自分の中に、特にアメリカに来てからは、あるので、この路線(作品/作者と観客の関係)でちょうどいいのかなーなんて思いつつ、つつ、そのうち誰か作品見て倒れたりして欲しいなーなんて別に根拠もクソもないし、倒れたからってどうだって事でもないかも知れませんけど、ぼーっと妄想してたりします(笑)。


僕がロズウェルに来て最初の人に見せられる仕事/作品を設置したのは二部屋ある僕のスタジオの小さな片方で、およそ10メートル×5メートルの細長いスタジオです(ちなみにもう一つのスタジオは10メートル四方弱)。光の印象に関しては写真の具合にも依るとは思いますが、もう片方の大きなスタジオの方が窓も多く満面に光が射す明るいスタジオであり、今回作品を設置した部屋は、昼間はしっかりと自然光だけで十分な採光が取れるにもかかわらず、どちらかと言えば暗い印象を訪れる人に持たせます。これは捉え方でしょうが、フラットに光が充満する部屋と、少ない窓から差し込む光、どちらが美しいかというのは難しいところですし、また近接する部屋との対比等に依って、部屋、或いは光の人間に及ぼす作用というものはまるで違って来ます。そしてこのロズウェルで僕が与えられた二つのスタジオは、広さという面では僕の経験上では希有なものがありますが、やはり多くのスタジオ、および空間と同じように、光が特筆して美しいとか美しくないとかということよりもむしろ、空間全体の統合的な雰囲気をぼんやりと示唆するだけの、ただ「ある一つの環境」としての空間には違いありませんでした。

むろん光はどこでだって美しさを、建築はその都度それぞれの歴史を、あるいは意図され、されなかった自己主張を僕に語りかけますが、いつだって僕とは関係がない所でそれらは自律して存在しているに変わりはなく、また同時にそれは僕の皮膚のこちら側で存在しているに過ぎません。そして光とそれぞれの物質は各々独立して存在を主張しているにもかかわらず、どちらかが欠けてもその存在を維持し得ないという点において密接に関係しています。そうやって既に充足している世界に対して、またさらに「作品」を付け足すという事はどういう事なのか、考えます。

もちろん作品もまた物質であり、光との関係は不可避ではあるわけですが、ただ物質である事が作品の存在条件であるかと言うと、スタジオが単に物質であるということのみが起因してスタジオであるわけではないのと同様にそうではない。問題は単なる物体としての自分/作者/アーティストと生み出される作品が、偶然投げ込まれ、取り払われるのを待つ石ころではなく、それがそこにあらねばならない理由とは何かということを言い当てる事、居場所を確保する事であると言うとやや消極的で卑屈な印象を抱かせるかも知れないませんが、もののない光だけの光のごとく、いるんだかいないんだかわからない何か、未だ姿を見せぬ存在理由とやらにに身体を与えることが基本的には重要な事のように思われます。

そして、前述した通り作品もまた広義で物質であり、ましてや僕のように、人の作る事・行為する事の問題〜人間の存在の問題をドローする問題〜作品の存在の問題に摺り合わせ、まさに描画材という物質を用いて思考を進めるにあたってはその描画材、立ち現れる物質を照射する自然界に厳然と存在し続ける光、そしてその場に既に在る様々に特有な要件を考える事は極自然な成り行きと思えます。(「広義で物質」というのは、自明のごとく概念そのものが作品と呼ばれるケースも多いが、表出ということの基本条件として言葉であれ何であれ媒体の介在は絶対条件である事はどういったケースにおいても同様と考え、表現媒体はいずれの場合においても照射する他者・光の存在もまた必須要件であるという意味で、表出媒体=物質と言う使い方をしました。)


僕がまず、新しいスタジオ、新しい住居にやって来て覚える感覚は疎外感です(まあこれは日本でどこにいても、自分の家に、部屋にいても未だクリアに解決をみていない問題でもありますが)。だから全然居心地はよくありません(笑)。いろいろカウチで寝てみたり床で寝てみたり、何度も模様替えをしてみたり、散らかしてみたり、あがき続けますが、、どうやらそういう所に問題はないらしい。なぜ、自分はここにいるのか。もちろんこの今回においては1967年から続く老舗のアメリカ・ロズウェルのレジデンス・プログラムに応募し、受かったからこそ毎月お給金をもらってスタジオ付きの住居にタダで住んでいるわけですが、なんで受かったのか、そもそもディレクターとレジデンスの合否を決した審査員とは別の人間であり、それが誰なのかも明かされておらず、ましてや審査をくぐり抜けた要因など知る由もなく、そしてそれらの審査員がここロズウェルの土地やレジデンスの事をどれだけ知っているのかもわからない、、と、いうことはここロズウェルにとっては本当は必要のない作家であったかも知れないという可能性は誰にも否定する事は出来ないわけで、さらにここロズウェルのディレクターおよび関係者が、そしてロズウェルという土地がどういった環境なのか皆目わからない状況において、まさにもののない光だけの光、茎のない花のような状況で、落ち着かないのも至極当たり前っていうものです。

ただ一つ明らかなのは僕という人間はアーティストとしてここに招かれたという事実です。その為に用意された施設であり、何をか作る事によって以外には僕という人間がここロズウェルにおいて茎を、根を持つ可能性は閉ざされているという事です。これはそうではないかも知れないけれど、違う可能性もあるかも知れないけれど、ひとまずそう考えます。茎とは光だけの光(すなわちロズウェルにおける僕であり作品)がこの場所における特定の表現媒体を獲得し、互いを照射する他者(つまりロズウェルという土地ほか環境的な周りを取り巻くもの)と関係を結ぶ事です。僕がいなければ相手が存在せず、相手がいなければ僕は存在しないという状態を築く事です。


ここアメリカで僕の作品を見る少なからぬ人々は、極めて感覚的に、深く考えた言葉としてではありませんが、度々リチャード・セラの名前を出します。これはいったいどういう事なのか、日本ではまったく一度も言われた事のなかったことですし、考えてみるのも面白そうですが、共にドナルド・ジャッドに影響関係を持つ意味ではまあ、何かあるのかも知れません。

ジャッドは、あるいはニューマンはと言ってもいいですが、作品が作品として「ただ在る事」を欲した作家であったと解釈しています。ニューマンはただ塗られた赤という事実を、ジャッドはその物体、作者の言う所の「スペシフィック・オブジェクト」を、それがそれだけのものとして「ただ、在る事」だけを観客の目に焼き付けます。過去も未来も記憶も環境も人の心理的ないかなるタイミングも、目の前にない全て、そんなあやふやな存在は信用出来ない。知らない。ただいまここに起こっている事だけが真実とでも言うように、それらはそれらだけで極めて自律して存在し、学生時代打ちのめされた事を覚えています。

ミニマリスムやその後のアルテポーヴェラ等の思考の基礎でありながら、また極めて還元的な進化型とも思えるそれら一群の作品は「ものはものだ」と観客を突き放し、作品との間に深い深い崖を作り、疎外感をもたらします。そしてギャラリーや観客自身はもちろんの事、作品を体験した視覚はその特殊な物体/特殊な現象がそれ自体、今この瞬間「在る」ということの不可解さ、不条理感を痛感させられる事になります。その強烈な「存在する感じ」にあてられて、作品は観客を含めたあらゆるものの存在の希薄さを糾弾します。(この作品は確かにここにある。しかし私たちは本当にここにいるのか。彼等がいるとしたらいないのではないか。本当は私は彼の夢なのかもしれない・・)と。

ただその糾弾は作品以外のあらゆる存在を消失させようとしたのではありません。それは現行の一元的な知覚のあり様に対しての糾弾であり、まったく違う位相の「現実」が存在する事、それを「アート」の、「物体」の、存在証明として明らかにし、「未だ見ぬ」あらゆるものに内包する全く別の、異質な可能性を示唆したのです。そして、作品はあらゆる事物・事象・活動の目に見えぬ、まだ誰も知らない「存在」の証明、すなわち世界の存在の証明をし、いまもなお、世界を存在させ続けているようにさえ思われます。唯名論的な視座の示唆というと、、どうでしょう。

ともあれかつて見た事のなかった(特殊な)物体を、その意味を同時に提示するという、この同語反復的な性格を持つ作品達は、後に具体的な行動/提示の方法論としてクネリスやセラに、「生きた馬やオウム」を「馬やオウム」として展示させると言う経緯を生みます。また、ドイツのゲルハルト・リヒターは(これはプランだけで実現はなかったようですが)観客をある美しい景色の山中に連れて行き、「これが私の作品だ」と発言するというアイディアを思いつきました。しかしこれらは作家や美術業界の思い込みで、その内部に知的好奇心を誘うばかりで、言葉で「馬を馬というタイトルでギャラリーで飼い、それを展覧会/作品とする」と言えば事足りるかのように思われます。

ソル・ルウィット等の作品形成行程と同じように、それらは概念のモデル化、図表化でしかなく、我々の現在「知っている」現実を、「それは現実だよ」と言っているの過ぎず、観客には何も示唆せず、与えず、それは言わば小学校の図画の授業で「ものを良く観察して描きなさい」と言っているようなもので、実現の意味をなさないものであり、その光は照射されるべき世界に向いてはいれど、未だ届いていないのではないかと僕には思われるのです。特にジャッドへのオマージュとして作られたわけではありませんが、まったく勘違いとしかいいようがない。さらに後、ルチアーノ・ファブロが指摘するように、トートロジカルな作品の内にそのものに存在する可能性を示唆する事、「推論の促し方」が重要なのでであり、ジャッドから学んだものを言葉遊びの土壌に乗せて、まるで括弧付きの「アート」を復権させるような試みは面白くない。


ジャッドは、もの/物体/アートという拡散され、漠然としたイデアから照射された言葉であるが故に広く広く用いられ、あまりに当たり前に身の一部になっている為に、完全に見落とされている言葉の意味するものを規定するというやり方で(正否はともかく)特殊な物体を鑑賞者に現わしました。別の位相における「もの」の特性をもって「これがものである」と提示したのです。それはものはものであったが、我々に既知の漠然とした、抽象的な名詞としてのものではなく、強烈にそれがそれ自体で自律しうる存在である事、あらゆるものが流動的な渦中に形を見失いがちでありながらも、それがそれ自体で全く知らない意味において自律し、存在しうる可能性を示唆したのです。

作品は工業製品という人工物の代表選手の特性、威圧感を形、色、質の面で最大限に引き出すとともに、本来備わっているはずの用途をそこから限りなく引きはがす事で、そして視覚を通した認識において、周囲を歩く事で理解し得る三次元的構造とそこに起きている見る事の出来ない三次元的現象の不可解で奇妙なギャップに、ただ、ただ名付けられない何かが在るという状態を作り出し、作品はただそれでしかない「アート」とされました。それはまるでモノリスのように、観客のいかなる認識への運動も無力化し、今厳然と何の他のものとも本質的には何も関係がなくそれぞれがそれぞれ独立して存在しているのだという視覚を促すことの成功です。

ペノーネやボイスは、ものが想起させる、あるいは作家があるものの状態を作る事で付与する何らかの象徴的イメージと、扱われる素材がどれだけイメージを想起させようともそれは永遠にそれらのイメージとは関係なく厳然と物質・既知の素材であり続けるという事実、その二極間の往復運動を促す体験をさせますが、それはすなわちもの/素材と自分/作者との二極間の往復と言い換える事が出来ます。それはあくまで人間の側から見る、見る事の出来る、確かめる事の出来る物質、たくさんの観念を身にまとった物質という側面を浮き彫りにした点で面白いと言えますが、しかしそれらのイメージ群は極めて個人的、地域的である事は免れておらず、というかそれが文学において言われる「呪」のごとく働き、また、作り手の思い込みによるイメージばかりで観客側/人の見ると言う行為の内にある観念の問題を無視して突っ走る(ように僕には見える)感じは、局地的に感覚を共有した者同士にしかわかり得ないある種の難解さを備えているように思えてなりません(決して否定をしているのではありませんが)。

しかしながら僕のやろうとしている事、やろうとした事は、やはり前に否定したある時期のクネリスやセラと同じようにきわめて「直」に、同語反復的な方法による事物の提示であり、作り手とそれを見る観客のドローイング(=描く事=見る事)に、引いては人間に内包する創造性の同語反復なのです。そして前述したある種の作家達と同様に僕の個人的な観念や感情にまみれた存在であることは間違いありませんが、それは同時に観客の観念や感情にまみれた存在として作品は提示されます。

作品にまつわる作者の観念は素材と不可分である事を主張しながらも(観念こそが物であると言っているわけではない)、観念を作り手の所有物にせず、観客に押し付けません(作者の所有物ではないという意味ではなく、作る者と見る者を同一の関係として、それぞれの所有物とする。つまり素材となる木炭や描く行為自体に対してのイメージは極めて個人的な作り手の内にあるものとして生み出され提示されるにもかかわらず、同時に見るという「関わり」が特権化されることによって、観客は作り手の内にある特定のイメージを押し付けられるのではなく、作り手と同様に創造者の立場を取る事になる)。同じ物を見ていても僕と誰かが同じ何かを見ているとは限らない、というか同じ物を見ているというのは共同的な幻想に過ぎません。(「同じものを見ている」という事は同時に見ている主体が「違うもの(人間)」であるという事を裏付けています)

繰り返しますが、僕の作品は「創造性」の同語反復です。クネリスらと同じように意識的に既知のものを既知のものであると主張しながらも、主張の対象は「当たり前のもの」でありながら、その「当たり前のもの」の具体的内実は流動的であり実体のない「イメージする現象」であり、その対象化へのエネルギーは作品に相対する者それぞれに異なる事象を見せる事になります。作品はジャッドのように観客に断絶と孤独、あるいは存在する事の畏怖を与えるのではなく、関わる者(観客)の生の活動の自立的存在を印象付け、また同時にあらゆる存在、物体の自立的存在の発見(あらゆる存在、物体への能動的関わり)を促すことが意図されています。それはまた、作品という一個の物体そのものを強調し続けたジャッドとは対照的に、サイト・スペシフィックな展示の方法を選択する事によって、可能になり、なりつつある事を感じています。


サイト・スペシフィックな展示の方法を行うのにはいくつか理由をあげることはできますが、まず僕の作品はドローイングの線一本一本を、全体におけるイメージの部分として認知させるのではなく、前述した通り描く行動を見る行動に置き換え、全体感というものは慎重に回避しなくてはならないという必然がありました。その為にまず、立体的な支持体と描画を同調させる方法を取り、見る角度、光の具合によって、ころころと変化する万華鏡のような状態を作る事にしました。
そしてインスタレーションの方法はそれらのドローイングが、何らかの再現的イメージを鑑賞者の内に形成することを避ける為に、無限に広がるドローイングの一部として偶然的にそこにある事(=作者の所有物としてのイメージではなく、作者と特定の場所との衝突による自然現象)を装う為、いや、強調する為、その形態を他者に依存する事にしました。ここで言う他者とはもちろん設置する場所の事であり、僕は一つの方法として既存の空間のある一部分の質を変化させると言う方法を取る事にしたのです。

もちろん作品が現実世界の物質である限り、どれだけその外観が巨大になったとしても輪郭があり、アースワークのようなものでも写真になってしまえば手の中に収まる簡単なイメージとなってしまいますが、この方法を取る事で、表向きにも作品は彫刻でも絵画でもなく、いわば新たな壁紙のごとく部屋との同居を果たす事になり、これが全体的イメージを回避する以上に重要な事となりました。

それは壁紙と同じく、鑑賞の際、絵画のように鑑賞者はその全体を掴むことが義務付けられているとばかりに遠くから見る等といった作法を回避し、おのずと体感の体験として作品に関わる事が示唆されるばかりでなく、部屋の一部、それも厳選されたある部分に作品は設置される為に、作品は強い自己主張をしながらも同時にそこに当たる陽の光、床や他の壁からの照り返しの強さ、色等の影響をもろに受けている事をもあきらかとなり、鑑賞者の視点は作品に留まろうとしません。

厳選された設置される展示空間内(この今回のケースではロズウェルのスタジオ)の場所とは、多面体としての建築空間内の、作品を設置された内部をもって元の空間(建築の構造)の形態の変化を示唆するような要素を持たない一面(建築空間の形態を示唆するのは輪郭によってのみ)、すなわち梁や柱を設置の範囲に含めず、角度の異なる二面の壁を渡って設営をせず、形態は様々であっても平らに広がる一つの面であり、かつ可能な限りその設置される空間の印象に影響を与えると思われる大きさ、形態、場所です。

「設置される空間の印象に影響を与えると思われる大きさ、形態、場所」そしてこのインスタレーションの方法に関しては、作者、つまり僕の個人的、恣意的選出であり、また作品のドローイングのように個人的、恣意的である事を意図されたものではありませんので、まだまだ生成段階である事は否めませんが、現行では考えうる最善の妥協案であると考えています。

作品は部屋の一部に成り代わり、一つの壁(あるいは床)になり、同時に作品でもある故に鑑賞の視点をその物体の隅まで、つまり普段一つの部屋にいては焦点を決して合わさない所にまで体験の内に合わせようとします。それは部屋/建築物の特殊な知覚へと鑑賞者を誘います。


ジャッドの現前せしめた「存在」とは一体なんだったのか。そこにある光とものの関係はあまりにも大きく、強いもののように感じられます。特定の作品は、たとえどんな所に置かれようが全く関係がないように一つの固まりとして作られ、おそらく人類がなくなっても作品は存在し続けるでしょう。視覚効果に着眼した作品でありながらも、それはひょっとしたら人類に向けて作られたというよりも、もっと大きなものの中での人類の証明のようなものであるのかも知れません。その強烈な光は我々の目をくらませ、それ故に畏怖のようなものを感じさせます。

この文章の書き始めに、表出の基本条件として「媒体の介在」があると書きました。ジャッドにおいてそれはいわば物体が周囲の環境との関係を絶つというある種の関係の表出、それが媒体と言えるでしょう。まるで宇宙人が外から見て地球がここにあると認めているだけであったのが、ある時ひょっこり目の前に姿を現したと言ったら言い過ぎかも知れませんが、ともあれ表出があらゆる他者/環境との反発関係に依存する事は究極の「存在」の証明であると言えるかも知れません。

一方、僕の作品はジャッドのそれのように厳然とどんな場所でもおかまいなくに自給自足して光を周囲に届ける事の出来るものではありません。では僕の作品における「媒体」とは何なのでしょう。僕はその照射しあう関係、僕自身/作品自身とこの現実世界とのそのあわいに生じる「流動的な」関係の内に見たいと思うのです。(これは僕が僕であるという限界の部分と言えるかも知れません)僕の作品における「媒体」とはもちろんドローイングの事を指しますが、それは仮に特殊なドローイングとも呼ぶべき、、人、鑑賞する、あるいは作者である僕の「イメージする事」に他なりません。このロズウェルでの最初の仕事を行使した僕に取っては、早く何とか解決を見なくてはならないこの一軒家を照らす乾燥した、まるで全てを焼き尽くすような太陽の光、つまりここでの居心地の悪さを持つ僕のイマジネイションが変化し、このロズウェル・アーティスト・イン・レジデンスの一つのスタジオとの幸せな結婚を作品をもって果たそうとする事が僕の夢であったし、世界との関係の夢であると言えるのかも知れません。

「想像力」/「環境」。僕の作品が拡大させる想像力が設置された環境を作り、設置された揺れ動く環境、或いは環境としての人間が僕の作品を作る。この双方を往還する様々なあわいの存在、それがつまり僕の作品であり、作品は人の創造性の確かな証明であるとともに、鑑賞者のイマジネイションを未知なる位相にゆっくりと転がして行く事が出来るのではないか、考えてみたいと思います。

2006年5月

(参考書籍)
トニー・ゴドフリー著/木幡和枝訳「コンセプチュアルアート」
ジョン・ケージ著/青山マミ訳「ジョン・ケージ -小鳥たちのために-」
峯村敏明著「彫刻の呼び声」
ゲルハルト・リヒター著/清水穣訳「写真論/絵画論」ほか

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