カテゴリー「□ステートメント」の13件の記事

2008年8月21日 (木曜日)

掃除の効用(2)

べつにキレイ好きを自称したいわけでも、実際そんな言うほどキレイ好きなわけでもない。でも、埃ってぇーヤツが嫌いだ。

ヤツは目にモヤモヤをつくってその奥にある物を見えなくするし、埃自体マジ見えないものって言ってもいい。や、もちろん降り積もって溜まってる状態は、そして今展覧会の搬入設置作業で前回のエントリから問題にしてる状態も、広範に渡る面積と厚みを持った物質としてしっかりしっかり網膜に移り込むけれど、誰も埃を埃以上の物として見ないし、何かそういう(どういう?)研究をしている人でない限り、埃を分類しバリエーションを見ようなんて奇特な人はいない。見えてても見えてなくてもどうでもいい存在、誰も埃の個性を見ようとしない、と、いう意味で埃は目に見えない。

「埃」という言葉、或いは「埃」というイメージに対して人の持つ引き出しは極めて少ない。汚い。古い。灰色。普通“霞”としてしか埃は存在しない。要するに、というか、だから、というか、ヤツは強すぎる不透明な象徴性を常に人に押し付ける。汚い。古い。灰色。一般に、埃の奥に間違いなく潜在する物を(存在している事を知りつつも)素通りする事っていうのは一つの習わしになっている。

ぬいぐるみ トトロ あなただけの トトロのなかま ワサワサ まっくろくろすけ以前もこのブログで書いたが、今回展覧会を行なう会場はちょーっと風変わりな建物で、もともと電車の整備工場だった場所である。古い大きなその内部には想像の追いつけないたくさんの記憶の詰まった傷があり、私の展示するスペースには大きな北窓が二つ、並んでいる。しかしながらやはりそれら全てにはしっかりぴったりがっちりべっとりヤツが鎮座してやがってて、まったくもって鼻持ちならない。

人によっては奴らをして「歴史を感じる」なんて言うかも知れないけれど、何もアテになるもんじゃない。埃は霞としてモヤモヤとしか機能しないし、一体どう、何の歴史を感じれば良いのか皆目わからない。

だから清掃って仕事は潜在する建築やいろんな傷の歴史を洗い出す事にもなる。別にカンっぺきに駆除しなきゃダメとかって事はないし、そのキレイさの度合いによって洗い出しにどんだけ差異があるのかと言うとそんなにないと思うが、大事なのはヤツに汚染を許さない、目に霞を許さない、見る事を邪魔させない事だ。

まっくろくろすけは良いけどね。

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掃除の効用

ワルツほうきM&文化ちりとりセット所沢ビエンナーレ・プレ美術展会場(旧工場)にて自分の展示範囲を清掃。今回の展覧会では事前に会場を視察出来る回数に限りがあったので、あまり具体的に想像していなかったのだが、けっこうきったない。工場として使われていたというだけではなく、すき間風やすき間水(台風などによる浸水)と床にこびり付いた黒い油染みによって泥が固まり表面からは止めどなく砂土がサラサラザラザラ産出される。

もちろん全ての場所を100%に近い割合で清潔にする事が目的ならばバイトを雇い、強力掃除機バキュームでガーガーズンズン吸い取って、水をぶちまけカッパキで丸洗いという手段が適当、そうすべきだろう。しかしある程度に清潔である事は重要だが、この僕の展覧会場作業における目的は清潔にする事だけにあるわけではないので、とにかく一人でほうきを両手に握って淡々と動き続けた。(グループ展である故に、他のアーティストの場所との差が広がり過ぎるのもまた問題だ。)

疲労を考えれば、1〜2人お手伝いさんが欲しかったっていうのも本音ではあるけど、「トリック」の上田教授なら「手間のかかる事を」と眉間に皺を寄せてきっと言うだろうこの奇妙で面倒くさい作業を、こちらがさして気を使わずに恊働してくれる人はこの土壇場では見つかりそうにないし、やはり一人で時間をかけてというのがよりよいと思っているから仕方ない。さっそく親指と人差し指の間に新しい水ぶくれが出来て潰れた。

掃除するって事はその対象となる空間の面積の広さを知る事だ。床を隅から隅までほうきで湛然に掃き、壁の埃を出来る範囲落とす。汚れているから一ところ一度さらっと触れた程度では収まらない。何度も何度も掃いてはちりとりを傾ける。そうしてゆく事で、図面やメジャーでの採寸では図る事の出来ない、そこにある空間がどういう広さを持った、どういう光の届く場所であるのかを徐々に徐々に身体で知る事が出来るのだ。

旧知のセンチだとかインチだとかっていう尺度は確かに便利な場所を知る手段であるが、それはあくまである頭の中で想像をする手だての一つでしかないし、いっつもいっつもそうした表記し得る尺度を意識して身体を動かし、生活を送っているわけではないので、肉体の感覚とのズレがどうしてもある。それも驚くほどの大きさで。

さらに丸一日、ないし複数日の間、掃除っていうあまり変化のない単調な動作の繰り返しを行なう事は、単調であるがゆえに同じ精神的、肉体的な関わりとして、その場に降り注ぐ光や湿度、空気の移り変わりを感じ取ることが可能になる。

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2008年8月16日 (土曜日)

時間の上に

今度八月末より作品を出品する展覧会の会場は、もともと工場であった仕切りのまるでない広大な面積を内部に持つ“いわく”のたんまり詰め込まれている感じの(実際そうだろう)とても魅力的な建物で、通常の美術館やギャラリーなどと言ったいわゆる「美術作品を展示する為に設えられた場所」ではない。

私はアメリカを中心とした7つのアーティスト・イン・レジデンスの経験からそうした場所、つまり美術作品が存在する事をあらかじめ保証された空間ではない元来それ以外の目的を持って建造され使用されて来た場所で作品を披露する、存在せしめる事には慣れている、というかそのような事について長く考えて来た。それはよい。

しかし「美術作品を展示する為の場所ではない」とは場合によって、いわゆる美術作品と呼ばれる多くの“物理的物体”にとって不利な環境である可能性がある。それはまさに今回がそうで、既に出来上がったポスターにも

【台風や地震などの不可抗力により、予告なく内容の変更や会場を閉鎖する場合があります】

と注意書きを見ることが出来るが、さらに二回目の展示現場視察の折りには

「大雨が降ったらどこから雨漏りがあるかわからない」

旨知らされた。見ると壁のいくつもの不自然な箇所から眩しい外光が漏れ入って来ていた。“穴”が空いているのだ。

私の作品の多くの主素材は紙であり、今回出品を予定する作品もまたまたしかり。雨に弱い。風に弱い。雨が吹き込み作品に影響すると思われる範囲の壁穴は当然塞ぐとしても、どこから来るとも知れない雨漏りに完全に事前対応出来るとは思えない。いや10メートルを優に越す高さの天井そのものに対しては、いかなる策も用意出来ないかも知れない。もちろん降水量が年間で一番多い九月と言っても可能性として台風も大雨もなにも訪れない、雨漏りが生じてもまったくもって影響ない場所に落ちて来る、そういう場合もあり得るし、希望も期待もある。しかし・・。

物理的肉体を持ったどんな美術作品もいずれは朽ちる。原則的に永遠な物体というものはなく、時間の経過上にあっていかなる物質の状態も変化をし続ける。そのいずれは朽ちる“物体”が時間軸上にどれくらいの期間存在すべきか否か、或いは物体の状態の変化変容そのものは、基本的に私の作品の《表現》に(作品のコンセプトに)関係ない。今のところ。それは、作品というものが時間軸上に生じ、現象し、存在するその「キラメキそのもの」に、私が重要性を見出しているからに他ならない。

しかし他方、《表現》とは他者の目に触れて初めて「表に現わされた」もの(表現)になるのもまた道理で、それには時間軸上に少なからぬスペースを確保せねば実現しない(展示出来ない)のも確かな事である。ここで作品の実現にあたり背反するかに見える方針が生まれている事に気づく。後者、時間軸上に表現の為に少なからぬスペースを確保する事“保存”と、前者、生じ、現象し、存在する「キラメキそのもの」に重要性を見出す私の作品に対しての意志、作品の在り方である。と書いたところでこの両者間には優先順位が明確に存在する事がわかると思う。つまり《表現》を特化し、《表現》に従属する“アーティスト”である私にとって、この今回の場合の作品という物理的肉体の“保存への欲望”はいわば邪念とも言うべき代物なのである。もちろん後者(保存)はしっかりと考慮を継続すべき重大事だが、決して前者(表現)を干渉してはならない。

それにしても私のこの紙による作品、そして今計画しているインスタレーション(設置)は、あの展示会場(旧工場)の環境にはあまりにも危うい。予期される災害に対し当然出来得る限りの防護策は取る。が、出来得る限りとは・・囁きを重ねるしかない。

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2008年7月 4日 (金曜日)

とにもかくにも手を動かすも一向にはかどっている気分にならない

とにもかくにも手を動かすも一向にはかどっている気分にならない。そういう気分においそれとしてくれる作業/制作方法ではない事は重々嫌というほど承知しているし、経過の全般的にそうそう進度に振幅のあるものでもないわけだから、「一向にはかどっている気分にならない」なんて感じている心身の状態が、“いつも”と仮に呼ぶ制作の進行状況と違うという事になる。まあ、結構な割合で、まだまだだなーっとか思っているから、これはこれでいつもの状況と言えなくもないのだけど、こうした気分、つまりまだまだだーっと冷や汗を流したり、途方もなく(と感じさせる)霞がかる山頂にうんざりうだ〜っとするような心境は、虚弱な集中力を鍛え、高めてくれるので大歓迎だ。慢性的な腱鞘炎だってへっちゃら。焦って雑になる。周りが見えなくなって自分が何をしているのかわからない。そういう事はどんな事柄にもどんな時にも在る事で、そうした一切を引き受ける準備は出来ている。

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2008年6月30日 (月曜日)

“ごまかす”の語源は“ゴマフアザラシ”

フォトポスター『ゴマフアザラシ』【ポイント10倍★6/30AM9:59マデ】アニマルポスター 「・・・・この展覧会はごまかすってわけにもいかないしなぁ」先日、とある人気アーティストが、話の最中に、これから行なわれるその人の展覧会出品についてこんなような事を言っていた。この時、この人が僕に(或いは同席していたもう一人に)言いたかった事、言葉の意味した事が僕に正しく伝達されたのかどうか、この人の過去の作品・展覧会の中には、しばしばでも稀にでも“ごまかされた”ものがあるのか否か、という事はわからないし、今確認のしようがないし、この文章で今このエントリで僕が書こうとしている事とはあまり関係がない。しかしながら、こうした物言いをこの時生まれて初めて耳にしたのかと言えばけっしてそうではない。そして、そうしたいくらかの言葉を通り抜ける中で(無自覚に右から左へ受け流して来た程度だが)居心地の悪さ、耳障りの悪さ、違和感を、僕は僕の身体に少なからぬ量、蓄積させて来た気がする。

この日この時、僕の日常にとって、この“ごまかす”という単語自体があまりにも久しぶり過ぎたという事もあるのだろう、新鮮味を帯びて響いて来た、と、同時に、どういう意味内容をその 「・・・・この展覧会はごまかすってわけにもいかないしなぁ」が持っているのか皆目ちっとも解らなかった。もちろん“ごまかす”という単語がどういう意味を指し示す単語かはわかっているし、わかっていた。あんまり連呼してるとわかってるはずの単語でも疑心が生まれて来るので、Yahoo!辞書から以下、引用しておく。

ごまかす
1 本心を見やぶられないように、話をそらしたり、でまかせを言ったりして、その場やうわべをとりつくろう。「笑って―・す」「年を―・す」「世間の目を―・す」
2 人目を欺いて不正をする。「帳尻を―・す」「不良品を―・して売る」
◆「誤魔化す」「胡麻化す」などと当てて書く。

うん、まあそんなとこ。すると 「・・・・この展覧会はごまかすってわけにもいかないしなぁ」は 「・・・・この展覧会は本心を見破られないようにうわべをとりつくろうってわけにもいかないしなぁ」とか 「・・・・この展覧会は人目を欺いて不正をするってわけにもいかないしなぁ」とかって言い換えてみる事が出来るかも知れない。ついでに「ごまかす 作品」というキーワードでヤフー検索してみる。

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こんな感じ(上画像クリックで拡大)。まあ当たり前の事の確認だけど、見渡してみると“ごまかされる物事”とはつまり“本来的にあるべき状況”なるものが前提として設定されて初めて成立する状況・物体であり、“ごまかす”とは、そうした前提、或いは“こうあって欲しいという希望的ビジョン”に対しての背徳行為と言う事が出来そうである。

腐って腐臭を発するやっばい返品された肉をひき肉にしてもう一回、これ新鮮ピチピチだよって言って出荷したり、間違った表記をし たラベルをあえて何かのたくらみによって添付された肉は“ごまかされた”ものであり、消費者の求める本来あるべき状況・希望的ビジョンとはかけ離れたも のである。

アーティストの作品や展覧会に対しての関わりに本来あるべき状況・希望的ビジョンがあるとして、それがごまかされた状況とはつまり、腐って異臭のぷんっぷん漂う肉がもはや商品にはなり得ないように、アートではあり得ないのではないか。商品になり得ないものを商品であると偽るように、アートではあり得ないものをアートであると偽る事で得られる何かというのがあるのだろうか。

や、いやそもそもアーティストの作品や展覧会に対しての関わりに、本来あるべき状況・希望的ビジョンが存在するって事自体わからない。ごまかされる対象が美術制作の内に存在する事がわからないのだ。

べつに自分の作品には“ごまかし”は一切ないなんていう無意味な自己顕示をしたいわけではない。作品や展覧会に対し“ごまかす”と言える感覚がわかり得な いだけに、“ごまかさない”“ごまかしがない”と言える感覚もまたわかり得ないから、そうした事が一切ないなどという事も又一切言えない。

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ちなみに語源サイト「語源由来辞典」によると以下が“ごまかす”の本当の由来なんだそうだ。

ごまかすは、江戸時代から見られる語で、漢字で「誤魔化す」と書くのは当て字である。
ごまかすの語源には、二通りの説がある。
ひとつは、祈祷の際に焚く「護摩(ごま)」に、「紛らかす(まぎらかす)」などと同じ、接尾語「かす」が付き、ごまかすになったとする説。
この説は、弘法大師の護摩の灰と偽り、ただの灰を売る詐欺がいたため、その詐欺を「護摩の灰」、その行為を「ごまかす」と言ったことからとされる。
もうひとつは、「胡麻菓子(ごまかし)」を語源とする説。
「胡麻菓子」とは、江戸時代の「胡麻胴乱(ごまどうらん)」という菓子のことで、中が空洞になっているため、見掛け倒しのたとえに用いられたことによる。

http://gogen-allguide.com/ko/gomakasu.html

そしてゴマフアザラシは漢字で「胡麻斑海豹」(笑)

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2008年6月22日 (日曜日)

だいたい

このところ継続して制作している272センチ四方の平面作品。これはだいたい延べ二ヶ月くらいで出来上がる。というかこれまで出来上がって来てる。このシリーズにおいて、あくまで「だいたい」で、決して同じという事はないが、このサイズはだいたい二ヶ月の作品であり、なんとなくでもこのシリーズ作品は、だいたいいつ頃完成に至るか予想のつくもののような気がしていた。

まあ、ここまでの物言いで察しは付くだろうが、このシリーズは、最初から二ヶ月という時間を費やす事自体に意味を見出して作り始めたシリーズではないし、紙のサイズも、経験と直感によって、描く一筆一筆のサイズやその質、出来上がってゆくテクスチュアとの相関関係などから導き出された。しかしだからと言って、その費やされた時間というものに意味がないわけでも、やはり、ないのだろうとも思う。

やっぱりいまも今日も作り作り続けているわけだが、昨日で作り始めて丸々一ヶ月が経過した。一ヶ月は経過したが、予想された一ヶ月分の仕事の量ではないようだ。このシリーズにおいて進行は、単純に一見して判断出来る筆致の量によって推し量る事が出来る。途中段階のそこに至るまでの筆致の量をそれが描かれた日数で割り、一日分の量を算出すれば、制作される紙の総サイズ内の余白が、その途中段階から、おおよそどの位の日数でうずめられるか、つまり完成に至るかという検討が付く。

しかしながら前々回の同シリーズ(同サイズ)作品のペースと、前回のペース、そして今回との差異が、いったいどういうポイントにあるのかという事が明確に理解されない以上、これも当てになるものではない。まるで。てんで。実際理解出来ないし、だから当てにならない。

今現在進行中の作品において、少ない統計から垣間見えた二ヶ月のペースってものを基準にすれば、この今の段階、明らかな遅延をしている。紙面を見ると、遅いだけあってか確かに大部分の筆致の単位は、前作と比較して、目に見えて細かくなっているようだ。さらにそれには、つまり筆致が細かくなっているという事実には、起因となるものがきっとあるには違いないが、そこで何が原因となっているかを考える事が、作品にとって重要であるようにも思えない。いや、おそらく暴いてはいけない領域のものである。第一、意識的とも無意識的とも言えない実戦としての筆致が無数に、本当に無数に錯綜していて、起因となるものを特定するなんて事が可能であるとも到底思えない。だから制作のペースの差異は謎のまま、「だいたい」のままで、常常、完成の時を推し量り切る事は出来ない。

実は、この作品が今本当のところ遅延しているのかどうかもわからない。終わってみれば二ヶ月ピッタリという事だって充分に考えられるし、もっともっと早くに完成する可能性だってまだ残している。

もちろんこの遅延は善し悪しとは無縁である。

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2007年5月13日 (日曜日)

トラルファマドール星の小説

トラルファマドール星の小説とは次のようなものであるそうだ。トラルファマドール星人は語る。(「スローターハウス5」カート・ヴォネガット・ジュニア著 伊藤典夫訳より引用)

記号のかたまりは、それぞれやむにやまれぬ簡潔なメッセージなのだーそれぞれに事態なり情景なりが描かれている。われわれトラルファマドール星人は、それをつぎからつぎというふうでなく、いっぺんに読む。メッセージはすべて作者によって入念に選び抜かれたものだが、それぞれのあいだには、べつにこれといった関係はない。ただそれらをいっぺんに読むと、驚きにみちた、美しく底深い人生のイメージがうかびあがるのだ。始まりもなければ、中間も、終りもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない。われわれがこうした本を愛するのは、多くのすばらしい瞬間の深みをそこで一度にながめることができるからだ

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2007年5月11日 (金曜日)

もくもくもくもく

Nakana あいかわらず、あいかわらず、あいかわらずに描いています。あいかわらず腰が痛いですが、あいかわらずに進行して行かないところが、この絵を描く方法のいいとこです。いじけて丸まっているようにも見えますが、あいかわらずノリノリです。

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2007年4月11日 (水曜日)

制作の方法

制作の方法を発見したのは、机の上でうんうん唸ってこれだって見つけたってんではなくて、いろんな偶然の賜物として、やって来た、という感じかもな。 と、今更ながら思った。ずっとうんうん唸っていたし、今もそう変わらないけど。

自分でもわからな い自分がまるごと現象してゆくような感覚がそこにあって、それについてこれまでいろいろいろ考えて来たし、これからも考えるんだろうけど、結局の所、いつも自分が何を描いているのかわからないし、まあ、それで もいいかと思っていたりもして、もっともっと制作に没頭したいという欲求が日に日に高まって来ている。

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2007年4月10日 (火曜日)

ATMOSPHERIC WORKS

◉シャープペンシルによるドローイング・シリーズ【ATMOSPHERIC WORKS】についてのメモ

Saikinwork_1

□見る為のフレーム
 あるギャラリーの空間には巨大な窓があり、その窓のすぐ外はそのギャラリーを一部に持つ建築の一つの見せ所である大きな池が広がっている。さらに池を前景に、この建築の所在する山の中腹の自然を感じる事が出来る仕組みがそこにはある。天候により、時間により、日ごと、そして季節ごとに実に様々な光をこのギャラリーは浴び、訪れる鑑賞者は、その時々に展示される作品たちと共に、それぞれの瞬間にそれぞれの瞬間でしか現れ得ない空間を共有するのだ。
 しかしここで見る事の出来る、とされる自然、ないし景観は当然、そうしたものを網膜と身体で触っている主体、つまり鑑賞者という媒介があってこそ成立しているに他ならない。人間はそれぞれの所有するフレームなしでは物事を「見る」という事は出来ない。物事はいつもどんなものも中立にしか存在せず、そこには如何なる価値も存在していると同時に存在していない。それらはある人にとっては気持ちのいい清々しい景色だったとしても、ある人にはお腹の痛くなるような因子が組み込まれている事だってある。当人の、その瞬間のフレームがどのようなものであるか、一体何に照準を合わせているかという事で「見る」という行為が、当人自身に与える印象は、どんな所にも転がってゆくものだ。

□地中美術館のアート
私は今年(2007年)の一月、建築家・安藤忠雄氏の手による香川県直島の地中美術館を訪れた。その外観から内部の採光に至るまで、徹底的に計算された安藤建築の哲学に、私は圧倒されると同時に、正直ホワイトキューブ(中立的な空間)を基本とする現代の美術館としては少々我が出過ぎているような(鬱陶しい)気持ちで、恒久展示される二人の現代作家(ジェームス・タレル、ウォルター・デ・マリア)と歴史的巨匠(クロード・モネ)の部屋に臨んだ。
 しかしどうだろう一人一人の作家の部屋を出る度に、それぞれ安藤建築の光、安藤建築の空、そう思っていたあらゆる空間、あらゆる隙間が、そしてさらに遠くに垣間見える自然物であるはずの木々さえも、全く異なって見えたのだ。ある時には全てがミニチュアモデルの人工的な作り物のように、ある時は驚くほど新鮮な見知らぬ色彩を放ってそこに存在しており、そして気が付くと、私の頭からは安藤忠雄氏の事はすっかりすっぽり消えてなくなっていたのである。
 当初、各展示室を訪れる以前は紛れもなく安藤忠雄氏の視線、フレーミングによって、半ば押し付けられるようにして、空や木々の臨める景色を私の網膜は捉えていた(それに対して私がいかに感じ、思おうが)それらが、展示室を出るごとに、デ・マリアの形成する宗教的世界に再フレーミングがなされ、タレルの眩い光の作品にリセットされた網膜によって景観は既知のものではなくなってしまったのだ。

□異世界を開示するフレーム
 こうした偉大な作品達は、私達鑑賞者にフレーミングの存在を決定的に意識させ、さらにその強大な力によって、全く知らない世界が私達の現実のすぐ側に横たわっている事を伝える。しかし、、私はその先の答えを見つける事が出来ないか、と、夢想する。
 確かにマリアの厳格な行きの詰まるような空間は、強烈な印象をいまだ私の記憶に残しているし、それについて考えもする。
 しかし、私は、私の作品では、異世界、つまりフレームは「(作品によって)与えられる」という存在である以上に、鑑賞者自ら「作り上げた」と実感出来るものにならないかと考える。
 私のシャープペンシルの細かい筆致の積み重ねによる作品は、鑑賞者それぞれの、それぞれでしか獲得し得ない様々なイメージとの出会いの実感が目指されている。それが伝えるのは、異世界は、隣だとかの鑑賞者と関係のないところではなく、それぞれの内部に存在するという事である。このコンセプトの実現は、すなわち作品が、それを見た人の世界を変える即戦力となる事を意味するはずだ。

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